1977年のロードレース世界選手権
![]() 1977年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第29回大会である。3月にベネズエラのサン・カルロス・サーキットで開幕し、シルバーストン・サーキットで開催された最終戦イギリスGPまで、全13戦で争われた。 シーズン概要ポイントシステムが前年の変則的な有効ポイント制から再び変更され、全レースのポイント合計でタイトルが争われることになった。これ以降、この全ポイント累積方式は1991年を除いて今日まで続いている[1]。また、この年は世界選手権から外れたマン島TTに代わってイギリスGPがカレンダーに加わった最初の年でもある。アップダウンの激しいマン島のマウンテンコースとは打って変わり、イギリスGPは飛行場の跡地に作られた高低差のほとんどないシルバーストン・サーキットが舞台となった[2]。更にこの年からベネズエラGPが新たに加わり、世界選手権は全13戦となった。その一方、オーストリアGPの350ccクラスでは死亡者が出る多重クラッシュのために決勝レースは中止となり、その直後の500ccクラス決勝レースではコースの安全性に対する抗議のためにほぼ全てのトップライダーがレースをボイコットするという事態になった[1]。 1977年は、15回ワールドタイトルを獲得したジャコモ・アゴスチーニがグランプリを走った最後のシーズンとなった。前年はワークス活動を休止したヤマハがグランプリに復帰し、再びYZRを得たアゴスチーニだったが500ccクラスで2位が2回、350ccクラスで2位が1回とついにこの年は1勝も挙げることができず、今シーズンを最後に引退することを決意したのである[1]。アゴスチーニが残した15の世界タイトルと122のGP優勝という記録は、その後も誰にも破られていない[3]。 ![]() ヤマハ、スズキに続き、日本のカワサキがこの年からグランプリに復帰してきた。すでにこの頃アメリカのレースや耐久レースで一定の活躍していたカワサキは、1975年にはタンデムツインという特異なエンジンレイアウトの250ccロードレーサーをアメリカのAMAレースにデビューさせており、このKR250が充分な戦闘力を持つまでに熟成されたと見ていよいよこの年のグランプリ250ccクラスに打って出たのである。マシントラブルに悩まされて安定した戦績は残せなかったもののデビューレースでポールポジションを獲得した上に早くも2勝を挙げるなどKR250は参戦初年度から速さを発揮し、更にこの年にはKR350の開発もスタートさせていたカワサキは翌年から中排気量クラスを席巻することになる[4]。 500ccクラス![]() 1年のブランクを置いて復帰したヤマハ・ワークスのラインナップは、アメリカやカナダのレースで活躍していたスティーブ・ベイカーと1975年350ccクラスチャンピオンのジョニー・チェコット、それにヤマハのオランダ現地法人であるヤマハモーターNVのサポートを受けたジャコモ・アゴスチーニの3人だった。迎え撃つスズキはワークス・チームの運営を前年同様にヘロン・スズキに任せ、チャンピオンのバリー・シーンに前年アメリカ人の500cc初勝利を挙げたパット・ヘネンとイギリス人のスティーブ・パリッシュを加えてシーズンに臨んだ>[5]。ディフェンディングチャンピオンとなったシーンだったがチャンピオンナンバーのゼッケン1は使用せず、自身のラッキーナンバーでありヘルメットに描かれたドナルドダックと並んでシーンのトレードマークとなっていたゼッケン7を着けてサーキットに現れた[6]。 開幕戦のベネズエラGPでは地元のチェコット、ヘネン、ベイカーがバトルを繰り広げる中で冷静にレースを見ていたシーンがトップに立ってそのまま逃げ切り、チャンピオンの貫禄を見せつけた[5]。シーンはトップライダーがボイコットしたオーストリアを挟んだ第3戦ドイツGPで2勝目を挙げると第5戦まで3連勝と順調に勝利を重ねた。この時代にはまだ超高速コースだったスパ・フランコルシャンで開催された第7戦ベルギーではシーンは平均速度217.37km/hで優勝しており、これはグランプリ史上最速の記録となっている[7]。続くスウェーデンでも連勝して勝利数を6としたシーンは、第9戦フィンランドではオーバーヒートのために6位に終わったもののタイトル防衛に成功した[8]。最高峰クラスで2年連続チャンピオンとなりイギリスの国民的英雄となったシーンは、この年の終わりに大英帝国勲章5等勲士(MBE)を授与された[9]。 ヤマハ勢ではチェコットがシーズン終盤に2勝を挙げたものの4レースでしかポイントを獲得できずランキング4位に終わり、対照的に未勝利ながらシーズンを通して上位入賞を続けたベイカーがランキング2位となった。ところがヤマハはシーズン終了後にベイカーを放出し、代わって翌シーズンからはベイカーと同じアメリカ人のケニー・ロバーツを起用することになる[10]。 350ccクラス事実上、ヤマハTZ350のワンメイクレースといった様相を呈していた350ccクラスだが、 ヤマハモーターNVのサポートを受ける片山敬済とジャコモ・アゴスチーニの2人が乗るTZは他とは大きく異なるマシンだった[11]。これはヤマハ本社ではなくヤマハNVが独自に2台だけ製作した、2気筒のTZ250のエンジンにもうひとつシリンダーを溶接した3気筒のスペシャルマシンで、このマシンの開発にはかつての125ccチャンピオンのケント・アンダーソンもかかわっている[12]。片山はパワフルだが扱いにくいこの3気筒と通常の2気筒の2種類のTZ350を、コースによって使い分けてシーズンを戦った。 第1戦ベネズエラGPの出場を見合わせた片山は、高速コースのホッケンハイムが舞台となったドイツGPでこの3気筒TZで優勝、続くイタリアGPでも3気筒で3位に入ると、ヘアピンの多いハラマ・サーキットのスペインGPではスタンダードの2気筒TZで3位となった。高速サーキットのポール・リカールでは3気筒に乗り独走で2勝目を挙げた片山は、ユーゴスラビアGPでは2気筒で連勝し、トラブルでリタイヤしたダッチTTを挟んでスウェーデンでも2気筒で優勝。そして3気筒で走ったフィンランドGPで、トップ走行中に1気筒が死ぬというトラブルに見舞われたもののそのまま逃げ切り、日本人初のワールドタイトルを決めた[11][13]。 片山と同じ3気筒のスペシャルTZを駆ったアゴスチーニはこの癖のあるマシンに苦戦し、ドイツでは片山に次ぐ2位入賞を果たしたもののその後は目立った成績を残すことができずに終わった[11]。 250ccクラス250ccクラスは前年までのハーレーダビッドソンワークス勢対市販ヤマハ勢という図式に、小排気量クラスで活躍していたモルビデリとグランプリ復帰を果たした日本のカワサキが加わっての争いとなった。ハーレーはこの年も速さを発揮してディフェンディングチャンピオンのウォルター・ヴィラが3勝、新たにチームに加わったフランコ・ウンチーニも2勝を挙げた。ニューカマーのカワサキもドイツGPで清原明彦が自身とKR250にとっての初グランプリでポールポジションを獲るという印象的なデビューを飾り、ミック・グラントはダッチTTで初勝利を挙げるとスウェーデンGPでも2勝目を挙げ、参戦初年度からトップを争える力があることを証明した。しかしハーレーやカワサキはトラブルも多く、ヴィラ、ウンチーニ、グラントらはそれぞれ2勝以上を挙げた反面、半数近いレースでノーポイントに終わった[5]。その一方、モルビデリのマリオ・レガは全12戦中10戦でポイントを獲得するという安定した成績を残し、勝利数こそヴィラやウンチーニより少ない1勝のみに終わったものの全レースのリザルトが選手権のポイント対象となるというポイントシステム変更の恩恵もあって初めてとなるタイトルを獲得した[14]。 125ccクラスモルビデリのマシンとピエール・パオロ・ビアンキの組み合わせは、この年も圧倒的な強さで125ccクラスを支配した。第3戦ドイツGPでシーズン初勝利を挙げたビアンキはそのまま5連勝を飾り、オランダでは9位に沈んだものの続くベルギーGPで6勝目。第10戦スウェーデンGPで2位になったビアンキは2戦を残して2年連続となるタイトルを決めた[15]。 50ccクラスブルタコのアンヘル・ニエトが3勝を含む全戦表彰台という相変わらずの強さを見せ、クライドラーのエウジーニョ・ラッツァリーニや新たにブルタコ・ワークスに加入して最終戦で初勝利を挙げたリカルド・トルモを押さえ、50ccクラスでは3年連続6度目となるタイトルを獲得した[16]。この年の第4戦ユーゴスラビアGPでは、前年同じオパティヤ・サーキットで1勝を挙げてランキング3位を獲得したウーリッヒ・グラフがクラッシュによって命を落としている[1]。 グランプリ
ポイントランキングポイントシステム
ライダーズ・ランキング500ccクラス
350ccクラス
250ccクラス
125ccクラス
50ccクラス
マニュファクチャラーズ・ランキング500ccクラス
350ccクラス
250ccクラス
125ccクラス
50ccクラス
脚注
参考文献
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