1972年のロードレース世界選手権
![]() 1972年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第24回大会である。4月にドイツのニュルブルクリンクで開幕し、モンジュイック・サーキットで開催された最終戦スペインGPまで、全13戦で争われた。 シーズン概要フランスGPとユーゴスラビアGPがカレンダーに復帰した一方、1949年の世界選手権シリーズのスタート以来その一戦として組み込まれていたアルスターGPが北アイルランド紛争の影響によってこの年からカレンダーから外され、この年の世界選手権は全13戦となっている。イベントとしてのアルスターGPはヨーロッパ有数の公道レースのひとつとしてその後も続けられているが、世界選手権に復帰することは二度となかった。 1960年代の終わりにグランプリから撤退した日本メーカーの中で最初にワークス活動を再開したのは、すでに市販マシンで中排気量クラスを支配しつつあったヤマハだった。この年、ヤマハは250ccと350ccの市販マシンである空冷のTR/TDシリーズをパーツの共通化を図ったTR3/TD3へと進化させてこれまで同様に多くのプライベーターたちに歓迎されていたが[1]、それとは別に両クラスに事実上のワークスマシンである水冷の新型マシンを投入してロドニー・ゴウルドやケント・アンダーソンといった契約ライダーを乗せ、同時に日本選手権で活躍していた金谷秀夫をグランプリに参戦させたのである[2][3]。翌年には、この新型マシンをベースとした市販マシンである水冷のTZシリーズがリリースされることになる。またその一方で、ヤマハは第二次ワークス活動の本命ともいえる500ccクラス参戦の準備を進めており、この年の9月には水冷4気筒のYZR500のテストを開始していた[4]。 活動を再開したヤマハはしかし、この年の第5戦として開催されたマン島TTレースにはチームとしては出場していない。グランプリの中でも最も伝統的なイベントであるマン島TTだったが、古く荒れた1周60kmのマウンテン・コースは最新のサーキットに慣れた人々には危険なコースと映っており、1970年代になる頃にはマン島TTを敬遠するライダーが増え始めていた[5]。1970年には250ccクラスのランキングトップだったスペイン人のサンチャゴ・ヘレロの事故死によってスペインでは自国の選手がマン島TTに出場することを禁止する決定を下しており、この1972年には125ccクラスでタイトル争いをしていたジルベルト・パロッティがトップを走りながら高速コーナーでクラッシュして死亡した[6]。パロッティの友人でもあったジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限りTTレースには出場しない」と語り、その言葉通りアゴスチーニのマン島出場はこの年が最後になった[5]。そしてこれ以降トップライダーやワークスチームがマン島を敬遠する傾向にますます拍車がかかり、ついには5年後の1977年からマン島TTはロードレース世界選手権のカレンダーから消えることになる[6]。 500ccクラス例年通りMVアグスタの3気筒に乗るジャコモ・アゴスチーニが出場したほぼ全てのレースで勝利を収め、500ccクラス7連覇を達成した[7]。アゴスチーニが唯一スタートしながらもトラブルに沈んだユーゴスラビアGPでも、順当にMVアグスタのチームメイトであるアルベルト・パガーニが優勝した[8]。しかし、この年このクラスで注目を集めたのはランキング3位、4位となったブルーノ・クノイビューラーやロドニー・ゴウルド、MVアグスタが出場しなかった最終戦スペインGPで優勝したチャス・モーティマーといったヤマハ勢だった。彼らは2ストローク空冷2気筒の350ccをボアアップしたマシンで、MVアグスタに迫る速さを発揮したのである。もしヤマハがこのエンジンにシリンダーを追加してフルスケール(500cc)とし、水冷化して出力向上させたマシンを造ったらMVアグスタの脅威となることは容易に想像され、そしてその予想は翌年のYZR500のデビューで現実となる[4]。 350ccクラスこの年アゴスチーニのタイトル防衛の障害となったのは、ヤマハの水冷2気筒に乗るヤーノ・サーリネンだった。サーリネンは緒戦の西ドイツGPで接戦の末にアゴスチーニを破ると続くフランスGPでも連勝して選手権をリードする。アゴスチーニはフランスでは4位に沈んだが、アゴスチーニが完走したレースで表彰台を逃したのは1967年以来のことだった[8]。MVアグスタは新しい4気筒を投入し、アゴスチーニは第3戦オーストリアGPから3連勝で巻き返しをはかった。東ドイツGPでは新たにアゴスチーニのチームメイトとなった前年の250ccチャンピオンのフィル・リードがMVアグスタでの初勝利を飾り、チェコスロバキアGPではサーリネンが3勝目を挙げて追いすがったが、フィンランドGPで6勝目を挙げたアゴスチーニがサーリネンを振り切って350ccクラスでは5年連続となるタイトルを獲得した[9]。 250ccクラス第3戦オーストリアGPでバリヤ・ヤンソンがデルビに250ccクラスでは唯一となる勝利をもたらしたものの、このクラスはほぼシーズンを通してヤマハ勢に対して2ストロークの新型を投入したアエルマッキワークスのレンツォ・パゾリーニがひとり挑むという構図の戦いとなった。開幕戦ではヤマハの金谷秀夫が初めてのグランプリで優勝するという快挙を成し遂げ、第2戦フランスGPではディフェンディングチャンピオンのフィル・リードが勝利した。フランスで2位に入ったパゾリーニは第4戦イタリアGPでシーズン初勝利を飾るとユーゴスラビアGPでも優勝、その後もコンスタントに表彰台に上る速さを見せた[8]。しかしシーズン後半に入ると前半にはなかなか勝てなかったヤマハのヤーノ・サーリネンが調子を上げ、ベルギーGPから3連勝でタイトル争いの主導権を握ると第12戦フィンランドGPで4勝目を挙げて初めてのタイトルを獲得した[10]。 125ccクラス開幕戦から2連勝してシーズンをリードしていたジルベルト・パロッティが第5戦のマン島TTでのクラッシュで事故死したことにより、シーズンの流れが変わった[8]。前年のチャンピオンであるアンヘル・ニエト、ヤマハワークスのケント・アンダーソン、マイコのバリヤ・ヤンソンら、レース毎に勝者が変わる混戦となり、タイトル争いは最終戦までもつれ込んだ。ヤマハのチャス・モーティマーは勝利数こそマン島での1勝に終わったものの、シーズンを通して表彰台に上がり続けるという安定した成績で最も多くのポイントを獲得したが、成績の良い7戦分のポイントを有効とする有効ポイント制によってタイトルは最多の5勝を挙げたデルビのニエトのものとなった[11]。 50ccクラスこの年、タイトル争いがもっとも激しかったのは50ccクラスだった。デルビのアンヘル・ニエトと前年のチャンピオンであるクライドラーのヤン・デ・フリースの2人は、最終戦を終えた時点で優勝と2位が3回ずつという全くの同ポイントだったのである。このような場合、規定では「フィニッシュした全てのレースの合計タイム」で順位を決めることになっており、21.32秒差でニエトが50ccクラスのタイトルを奪回した[8][12]。ヤン・ブルインズのユーゴスラビアでの1勝が決め手となってマニュファクチャラーズ・タイトルはクライドラーに譲ったデルビだが、この年をもってワークス活動を休止した[8]。 グランプリ
ポイントランキングポイントシステム
ライダーズ・ランキング500ccクラス
350ccクラス
250ccクラス
125ccクラス
50ccクラス
マニュファクチャラーズ・ランキング500ccクラス
350ccクラス
250ccクラス
125ccクラス
50ccクラス
脚注
参考文献
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