ウラジオストク
ウラジオストク(ロシア語: Владивосток, ラテン文字転写: Vladivostok ヴラヂヴァストーク、ロシア語発音: [vlədʲɪvɐˈstok], 1860年にロシア軍の前哨基地として設立された。1872年、太平洋に面したロシア海軍の主要基地が移設され、以後ウラジオストクは発展していく。1917年のロシア革命勃発後、1918年に外国軍に占領され、日本の最後の撤退は1922年であった。このとき、ウラジオストクの反革命白軍部隊は速やかに崩壊し、ソ連政権が確立された。ソ連崩壊後、ウラジオストクは沿海州の行政の中心地となった。 ウラジオストクは太平洋に面したロシア最大の港であり、ロシア極東の経済、科学、文化の中心地であり、ロシアにおける重要な観光地でもある。シベリア鉄道の終着駅として、2017年には300万人を超える観光客が訪れた[4]。極東連邦管区の行政の中心地であり、ロシア海軍の太平洋艦隊の司令部が置かれている。その地理的位置とロシア文化から、「極東のヨーロッパ」とも呼ばれている[5][6]。ウラジオストクには多くの外国領事館や企業がオフィスを構えており、毎年東方経済フォーラムが開催されている。ウラジオストクの年間平均気温は約5℃と、中緯度の海岸沿いの都市としては寒冷な気候である。これは、冬に広大なユーラシア大陸から吹く風が、海水温を下げるためである。 名称Владивостокという言葉は、「ヴラジ- (влади)」と「ヴォストーク (восток)」から成っており、「ヴォストーク」は「東」を意味し[注釈 1]、「ヴラジ-」は「領有・支配する、物件を自由に使う、制御する」を意味する動詞「владеть (ヴラヂェーチ)」からきている。 この名称は「東方を支配する町」を意味するが、その名のとおり、ウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市であった[注釈 2]。これは、ロシアの古い都市ウラジーミル(公・大公の名に由来)に範を取った名称であるためで、ほかにも同時期に作られたウラジカフカス(カフカースを支配する町)などがある[7]。また、しばしば「東方を支配せよ(Rule the East)」、「東方の支配者(Lord of the East)」、「東方の覇者(Conqueror of the East)」とも解釈される[8]。 日本語のカナ音記ではさまざまな表記が見られ、ウラジオストク、ウラジオストック、ヴラジヴォストーク、ヴラヂヴォストーク、ウラディヴォストーク、ヴラヂヴォストーク(ソビエト科学アカデミーによる公式な日本語表記)、ウラジヴァストークなどがある。 上述の通り、本来のロシア語での造語としてはウラジ・オストク(ヴラディ・ヴォストーク)が正しいが、日本ではたびたび「ウラジオ・ストク」と異分析され、明治時代以降浦塩斯徳(または浦潮斯徳)と当て字された。通称は「浦塩(浦潮)/ウラジオ」と略され、気象通報でも以前は「ウラジオ」と呼称されていた。 中国語では清国の領土であった時代の呼称である海参崴と表記される他(後述)、ロシア語名の音訳である符拉迪沃斯托克の表記も使われる。 地理ウラジオストク市は沿海地方南部のピョートル大帝湾の南にあり、平地が少なく坂の多い港町である。日本海に突き出したムラヴィヨフ・アムールスキー半島(長さ30キロメートル、幅12キロメートル、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーに由来する)南端部の北緯43度7分、東経131度51分に位置し、ロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市でもある。 ![]() 丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっている。街の中心部は金角湾の奥にある。南には東ボスポラス海峡をはさんで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かぶ。 民族構成ウラジオストクを含む沿海地方やハバロフスク地方は、19世紀末からウクライナ人の入植者が多く、緑ウクライナとも呼ばれていた。現在はロシア系とウクライナ系が大多数を占める。2010年の全ロシア国勢調査によると、ウラジオストクには70以上の民族が住んでおり、その中で最も多いのは475,200人のロシア人で、10,474人のウクライナ人、7,109人のウズベク人、4,192人の高麗人、2,446人の中国人、2,295人のタタール人、1,642人のベラルーシ人、1,635人のアルメニア人、1,635人のアゼリー人、その他1,252人と続いている。 調査によると、2002年以降、都市の民族構成が変化し、ウズベク人のシェアは14.4倍に増加し、中国人とタジク人のシェアは5.4倍、キルギス人は8.5倍、高麗人は1.6倍に増加した。沿海地方の高麗人の半数以上は、ウラジオストクとウスリースクの2つの都市に居住している。沿海地方のウズベキスタン人の80%以上がウラジオストクに住んでいる。前述のように、ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人、タタール人の割合は減少している。また、近年の建設ラッシュに合わせ、北朝鮮や中央アジア各地からの労働者が建設業などに携わっている。ロシア革命前後には日系人が6,000人ほど在住し、日本人街が形成されていた。戦後は外国人の立ち入りを禁止する閉鎖都市であった時代が長く、2011年現在、外務省へ届け出ている在留邦人(日本国籍所有者)は104人[9]にすぎない。 宗教施設ロシア正教会が多いが、そのほとんどはソビエト連邦時代に共産主義の宗教否定により破壊され、ソビエト連邦の崩壊後に再建されたものである。その他のキリスト教としてはカトリック教会、ルーテル教会、アルメニア正教会がある。ほかの宗教施設としてはユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスク、チベット仏教の施設がある。 標準時![]() この地域は、ウラジオストク時間の標準時を使用している。時差はUTC+10で、夏時間はない。2011年3月までは冬時間がUTC+10で夏時間がUTC+11であったが、同年3月からは夏時間を標準時とする形で夏時間制が廃止された。そして2014年10月から、通年UTC+10となった。 気候ケッペンの気候区分によると、ウラジオストクは亜寒帯冬季少雨気候または湿潤大陸性気候に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。 冬季は乾燥しており、基本的に晴天が続く。沿岸都市であるにもかかわらず、1月の平均気温は-11.9℃と、日本でもっとも寒い陸別町の1月の平均気温-11.1℃よりも低い(平均最低気温は陸別町が-19.6℃と、4.6℃低い)。 夏季は湿度が高く、年間降水量の70%が集中している。晴天の日には高温になることもある。
歴史![]() ![]() 石器時代古来よりツングース系民族が住んでいたと考えられている。2万年前に日本から運ばれた隠岐産の黒曜石などが発掘されている[10]。 7世紀末から10世紀初頭は渤海国の領域であった。アルセーニエフ沿海地方州立博物館には、渤海国時代の遺跡から発掘された文化財が展示されている。 内モンゴルを中心に支配した契丹人(キタイ人)や耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝の領域であった。遼王朝は916年から1125年まで続いた。 12世紀初頭から13世紀初頭は、中国の北半を支配した女真族の金王朝の支配領域であった。 元の時代、現在のウラジオストクにあたる地域は永明城(永遠の光の都市(City of Eternal Light)の意)と呼ばれていた[11]。 明の時代、永楽帝が奴児干都指揮使司を設立、東北地方を支配する機関として「奴児干都司」が設置された重要な要衝地となっている[注釈 3][注釈 4]。 清の時代、外満洲(がいまんしゅう、英: Outer Manchuria)と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストクにあたる地域は海參崴(「海辺の小さな村」の意)と呼ばれていた。外満洲は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって、清からロシア帝国に割譲された。 ロシア帝国時代ロシア帝国は1860年に北京条約によって外満洲を清から獲得し沿海州を設置して、その南部にウラジオストクの街を建設した。ロシア人のほかドイツ人、デンマーク人、イギリス人も都市の建設に携わった。 イザベラ・バードの朝鮮紀行によれば、1860年に測量を開始、1863年にオークやマツの大木を切り払い仮設小屋を建て始めた際には、野生のアムールトラによる被害が出た。1878年にニコラエフスクから海軍施設を移設すると人口は増加し、1897年には、朝鮮人や中国人などの民間人を含め25,000人規模の都市となった[12]。1880年以降、黒海沿岸オデッサとの間に義勇艦隊が定期航路を開設し、ウクライナから農業開拓移住者を運んだ[13]。 19世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港[注釈 5]として極東における重要な港町に位置づけられた。1878年にニコライエフスクから海軍が移駐、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊が置かれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所やドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた。 日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。
日本占領~極東共和国時代ロシア革命の勃発により、第一次世界大戦の連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・カナダ・フランス・イタリア王国・中華民国)が干渉戦争としてシベリアへ出兵することが決まり、 まず1918年(大正7年)4月5日、日英の陸戦隊がウラジオストクに上陸[14]。同年夏には37,000人の大日本帝国陸海軍が上陸。その後、その他連合国の少数の干渉軍が上陸した(シベリア出兵)。しかし、1918年11月に起こったドイツ革命によって第一次世界大戦は停戦したため、これによってシベリア出兵の目的を喪失した他の連合国軍は1920年に相次いで撤兵したが、その後も日本軍だけは事後処理を名目に駐留を続行した。日本出兵部隊の本部は現在の「沿海地方内務局ビル」内にあった。 日本は当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンとの戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いにバイカル湖東部まで侵攻し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大。ウラジオストクからイルクーツク以東を1918年から1922年にわたって占領した。ウラジオストクには1920年から1922年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は97,000人から41万人までに増加した。1922年10月25日、最後の日本軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は10万8,000人にまで減少した。 ソ連時代1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。ソビエト連邦時代の1938年には、沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに、軍港として重視されるようになった。 その後、第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争〈日〉・大祖国戦争〈ソ〉)後、市内には第13収容地区(ラーゲリ)が設置されて、シベリア抑留された日本人捕虜が労働を強いられた。過酷な生活と環境の中で倒れた者のために日本人墓地も作られた[15]。その後、冷戦に入ると国際都市から一変。1958年からソ連が崩壊する1991年まで、ごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止された閉鎖都市とされた。その間、ウラジオストクの代わりにナホトカが日本を含む外国との貿易港として、そしてシベリア鉄道の始発駅として機能した。そのため、日本国総領事館もナホトカに移転していた。 ロシア連邦時代ソビエト連邦の崩壊後の1992年、ウラジオストクが閉鎖都市の指定から解除され、1993年には日本国総領事館がナホトカからウラジオストクへ移転した。民間旅客航空会社のウラジオストク航空が誕生し、日本の新潟空港、富山空港、関西国際空港、北九州空港、成田国際空港との間に定期便が就航していたが、サハリン航空と合併してオーロラとなった。2017年10月現在、ウラジオストクから日本への直行便は週10便ある。オーロラの成田-ウラジオストク便が週3便、S7航空の成田便が週4便、新千歳空港便が週3便[16]である。 2012年9月にはルースキー島でロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となった。APEC終了後に極東連邦大学がその会場の建物に移転した。 ロシア政府はAPEC開催に備える形でルースキー島連絡橋の建設やウラジオストク国際空港の改修を行うなど、ウラジオストクに対して総額約6,000億ルーブル(1兆6500億円)の莫大なインフラ投資を実施した[17]。ルースキー島はリゾート地化を目的として大規模な開発が進められており、リゾートホテルやプリモルスキー・オケアナリウム水族館ができている。 2017年8月より無料の電子査証での訪問が可能となった。2010年代後半には「日本から一番近いヨーロッパ」として注目され、ウラジオストクを訪れた日本人観光客は例年7,000-10,000人程度で推移していたが、2017年に18,000人を超えた[18]。しかし、2020年代初頭のSARSコロナウイルス2流行による世界各国の出入国規制やウクライナ戦争などが原因で、ウラジオストクを訪れる観光ブームの機運はしぼんだ。 産業おもな産業は造船業と漁業、軍港関連産業である。ソ連崩壊後は日本などからの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっている。経済的にはインフラ整備の遅れが問題になっていたが、2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施され、急速に整備が進んだ。 現在は自動車産業を積極的に誘致している。2009年12月にソラーズがロシア極東地区初の自動車工場として操業を開始したほか、マツダやトヨタ自動車など外資系メーカーの進出も進んでいる。また、ガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設が計画されている。 ロシア極東部への外国投資を促すのが主目的の国際会議「東方経済フォーラム」が、2015年から毎年9月にウラジオストクで開かれている。 交通道路![]() 市外との主要道路は、北方面へのM60幹線道路(ウラジオストク - ハバロフスク、別名:ウスリー幹線道路)が本市を起点としており、この道路はシベリア横断道路(ノヴォシビルスクなどを経てモスクワとサンクトペテルブルクへ)の最東端になっている。また、東方面にナホトカへの道路、南方面へハサンへの道路(さらに北朝鮮の国境を経て清津へ)もある。 鉄道美しい駅舎を構えるウラジオストク駅はシベリア鉄道の東方の始発駅である。
航空ウラジオストク国際空港が、市の中心部から北に50キロメートルほどのアルチョーム市にあり、ロシア国内の主要都市と日本(東京、札幌、大阪)、韓国(ソウル、釜山、大邱)、中国(北京、天津、ハルビン、上海、香港など)、北朝鮮(平壌)、台湾(台北)、タイ王国(バンコク)に就航している。韓国にはLCCも就航している。 航空便は2008年ごろには日本との直行便は最大で4都市(新潟・富山・北九州)・週10便前後も運航していたが、2011年には1都市(東京/成田)・週2便に減少した。その後は2012年のAPEC開催を契機に、成田空港との間にS7航空の直行便が就航した。 2017年春からは東京/成田はオーロラ航空も参入し、毎日1往復と観光ビザ緩和でかつての賑わいを取り戻すようになった。2018年5月25日より再開した新潟へは夏期のみの期間就航となっている。2018年12月からウラル航空により新千歳空港にも就航を開始した。2019年夏からは、季節限定便としてS7航空が関西空港へ週2便運航している。 日本航空は2020年2月26日から、当初は週3往復、夏ダイヤが始まる3月29日からは週7往復のデイリー運航に増便する見通しで、機材はボーイング737-800型機(2クラス144席:ビジネス12席、エコノミー132席)を使う。全日空は2020年3月16日より成田から週に2往復運航することが決定した。機材はエアバスA320neo(2クラス146席:ビジネス8席、エコノミー138席)を投入するとしている。 船舶軍港で有名なウラジオストク港は国際貿易港でもあり、各地への航路が開かれている。
市内公共交通![]() ![]()
名所・観光地
教育大学ウラジオストクにある大学[19]は、
などがある。 その他
文化
ウラジオストクが舞台となった作品小説紀行映画
テレビドラマバラエティ番組
漫画
テレビアニメ
ゲームソフト
ミュージックビデオ
写真集、カレンダーなど
ウラジオストクにちなんだ命名艦船
日本との関係
ロシア帝国時代ウラジオストクと日本の関係はウラジオストク創設の1860年以降に始まる。
日本占領から極東共和国時代
ソ連時代
しかし、その後の東西冷戦期のウラジオストクは前述のように高度な軍事機密に関わる軍港として閉鎖都市となり、日露(日ソ)間の航路もナホトカに移動され、ほかのすべての外国人と同様、日本人にとってウラジオストクを訪れることができない状態がソ連崩壊後まで続いた。1909-1922年、1925-1946年、および1993年以降、在ウラジオストク日本国総領事館が設置されている(不在期間の後者は、東西冷戦期である)。 ロシア連邦時代現在のウラジオストク市内では日本から輸入した右ハンドルの中古車が数多く走っており、その比率はおよそ9割以上である。一時期、およそ10万人が車輸入販売、修理、洗車などの中古車関連ビジネスに従事していたという[26]。2009年1月よりロシア政府が自国自動車産業の保護を目的とし輸入車の関税を大幅に引き上げたため、地元では大きな影響が出ている。 日本との地理的な近さ(東京からはソウルよりも近い)などから日本語教育が非常に盛んであり、市内の各大学や高校などでは日本語教育が行われている。また、同時にロシア語を学ぶ日本人留学生も少なくない。2017年8月8日よりウラジオストク域内では電子ビザでの滞在が可能となり、渡航日の4日前にネット上で申請することで無料でビザ取得が可能となった[27]。 進出している主な日系企業・団体
姉妹都市
脚注脚注
出典
参考文献
外部リンク |
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