イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)
『イエロー・マジック・オーケストラ』 (YELLOW MAGIC ORCHESTRA) は、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のデビュー・アルバム[注釈 1]。1978年11月25日にアルファレコードからリリースされた。日本ではオリコンチャートにて最高位69位を記録した。 作詞はクリス・モズデル[注釈 2]、作曲は細野晴臣、高橋ユキヒロ、坂本龍一および3人の共作となっている他、マーティン・デニーの曲「ファイアー・クラッカー」のカバーを収録、プロデュースは細野が手掛けている。後にアメリカ合衆国にてリミックス版がA&Mレコードよりリリースされたが、その際に「アクロバット」が削除されている[注釈 3]。 シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Invaders)」が、イギリスでリリースされ、1980年6月14日付の全英シングルチャートで17位を記録した[1]。また、シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、1980年3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した[2]。 背景1977年に村井邦彦と共に温泉旅行に行った細野は、村井からプロデューサーとして契約を打診され、その場で快諾しクラウンレコードからアルファレコードへと移籍する事となった[3]。その後、細野プロデュースの下でドラマーの林立夫、歌手のMANNAと共にティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニバル」をカバーする予定であったが破談となる[3]。さらに、移籍第一弾としてリンダ・キャリエールのアルバム制作を手掛けたものの、そのアルバムは発売中止となった[4]。そのため、その後に手掛けたアルバム『はらいそ』(1978年)が移籍後の初作品となった[4]。この時点ですでに「イエロー・マジック構想」は存在し、細野は林、佐藤博と共にマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をディスコアレンジでカバーするという予定であったがこれも実現しなかった[3]。その後、『はらいそ』の収録曲「ファム・ファタール」のレコーディング時に細野は高橋、坂本と初顔合わせとなり、偶然に近い形で坂本と高橋がメンバーとして選ばれる事となった[4]。また、一部では当時のマネージャーであった日笠雅子の占いによってこの2人に決定したという噂も存在した[4]。 1978年2月19日[4]。YMOに関するプランとは「外人から見た、誤解された東洋イメージ」をテーマとし、戦略としては「マーティン・デニーのエキゾチック・サウンドをジョルジオ・モロダー風のエレクトリック・ディスコ的なアレンジで行う」というものであった[4]。また、この細野のノートには、「『ファイアークラッカー』をアメリカで発売し、売り上げ目標400万枚!」とイラストと共に記されていた[4]。 、細野は自宅に坂本と高橋を呼び、2人に焼きおにぎりを振る舞った上にYMOに関するプランを描いたノートを提示した4月に細野は横尾忠則と共にインドへと旅行した後、アルバム『COCHIN MOON(コチンの月)』(1978年)の制作準備を開始、同アルバムには坂本、高橋の他にコンピュータ・プログラマーとして松武秀樹が参加[4]。4月10日には坂本のデビュー・アルバム『千のナイフ』(1978年)のレコーディングが開始され、同アルバムには細野、渡辺香津美、高橋悠治、ペッカー、山下達郎などが参加した他、坂本がジャケットで着用している服のコーディネーターとして高橋が参加[4]。5月には高橋のソロ・アルバム『サラヴァ!』(1978年)のレコーディングが開始され、細野、坂本、加藤和彦、高中正義、大村憲司、鈴木茂が参加[4]。6月21日には細野が参加した企画アルバム『PACIFIC』(1978年)がリリースされ、収録曲の内の「コズミック・サーフィン」では坂本、高橋、浜口茂外也が参加した[4]。 録音細野晴臣によるプロデュースで、坂本龍一と高橋ユキヒロと3人で楽曲を制作した。このとき高橋は作曲経験が浅かったため、坂本から作曲の方法を聞いたり、鼻歌を坂本が書き留めて譜面化するなどしていたという。また、当時細野は本名ではなく「ハリー細野」と名乗っており、プロデューサー名のクレジットも「HARRY HOSONO」となっている。 1978年7月10日[4]。細野は当初の構想であった「ファイアークラッカー」とドイツのシンセサイザー音楽を融合させる事を目的とし、さらに「イエロー・マジック・オーケストラ」という名称もこの時に名付ける事となった[4]。また、この時点ではあくまで「細野晴臣とイエロー・マジック・オーケストラ」という感覚であり、細野はバンドとしてではなく企画性の高いユニットと位置付けていた[4]。 より、STUDIO "A"にて本作のレコーディングが開始された。レコーディングには細野、坂本、高橋の他に松武、高中、橋本俊一が参加した最初に録音された「ファイアークラッカー」はコンピュータを使用しない人力演奏でのバージョンであったが、単なるスタジオセッションのような仕上がりのためお蔵入りとなった[3]。その後冨田勲のアルバム『月の光』(1974年)を聴き感銘を受けた細野は冨田の下でマニピュレータをしていた松武秀樹と知り合い、松武はアルバム『COCHIN MOON(コチンの月)』に参加する事となった[3]。また冨田の音楽に触れた事を切っ掛けに、細野はそれまで興味の湧かなかったシンセサイザーに傾倒する事となり、この時期にコルグのPS-3100を購入している[3]。 同時期にはアーケードゲーム『サーカス』(1977年)や『スペースインベーダー』(1978年)が登場し、喫茶店などに設置される事が多くなっていた[3]。また、映画においても『スター・ウォーズ』(1977年)や『未知との遭遇』(1977年)などが公開され、これらの影響がアルバム内に音として取り込まれる事となった[3]。しかし、村井には理解されずレコーディング中に「そんなのやめてこれ聴こうよ」と大村憲司のレコードを村井がかける場面もあったという[3]。 8月15日には「インド」という仮タイトルの曲がレコーディングされるも、アルバムには未収録となった(後にPre-YMO名義で発表)。アルバム制作費は当時の一般的な制作費の倍に当たる800万円をかけていた[5]。 音楽性YMO結成以前の細野はオリジナル・サヴァンナ・バンドの影響により『トロピカル・ダンディー』(1975年)や『泰安洋行』(1976年)などのアルバムを製作したが周囲の理解を得られず、当時流行していたディスコサウンドと融合する事で商業化できるでのはないかと画策する[6]。また、オーガスト・ダーネルが「Dr.バザード」という変名を使用していた事に影響され[注釈 4]、細野は「HARRY HOSONO(ハリー細野)」と日系2世を思わせる名義で活動する事となる[6]。さらに、当時の環境としてレコーディングが終わるとメンバーはディスコに行く事が多く、享楽的な部分から本作にディスコの要素が取り入られる事にもなった[6]。 その他にも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがリリースしたアルバム『フレッシュ』(1973年)に影響された細野は、エース電子工業から発売されていたエーストーンのラテン音楽のようなリズムボックスを愛好するようになり、シンセサイザーよりもリズムボックスに強い興味を抱いていた[6]。その頃に街では喫茶店にアーケードゲームが配置されるようになり、喫茶店に入り浸ってゲームをプレイしていた細野は筐体から音を直録りして使用するつもりであったが断念し、あえてコルグのPS-3100を使用してゲームの音を再現する手法を取る事となった[6]。 作曲に関しては細野は他の2人を優先し、間を埋めるような形で自身による作曲を行っていた[3]。細野によれば、「僕だけが熱狂してたわけじゃなくて、他の2人が僕以上に熱中していた」状態であり、特に高橋は本作のコンセプトに強い興味を抱いていたという[3]。細野は当初YMOをインストバンドにする予定であったが、高橋作曲による「中国女」で歌唱した事によってボーカルグループの可能性が出てきたという[3]。またこの曲でミニマル・ミュージックの要素を取り入れており、メンバーはそれを特に気に入っていたと細野は語り、また高橋作曲の曲は細野や坂本が後に肉付けする事になるため「いちばんYMOらしさが出る」とも語っている[3]。 当初の発案として細野は当時「ミーコの『スター・ウォーズ』みたいなレコードを作りたい」と発言しており、その後レコーディングが開始されるとジョルジオ・モロダーやクラフトワークを意識するようになったという[6]。「東風」以降(LPレコードのB面)のノンストップ構成は、当時ディスコ向けメドレーアルバムをリリースしていた前述のミーコの影響によるものである。また、ジョルジオ・モロダーのアルバム『永遠の願い』からも影響を受けたと細野はコメントしている[5]。またドラム・トラックはテープによるループでなく、高橋が全編にわたり演奏している。 「東風」「中国女」「マッド・ピエロ」の名称は、ジャン=リュック・ゴダールの『ゴダール3部作』と称される映画タイトルから取られている[7][5](「マッド・ピエロ」は邦題「気狂いピエロ」)。映画には関係なく、ゴダール好きの坂本がタイトルを引用したもの[5]。 リリース1978年11月25日にアルファレコードからLPレコード、カセットテープの2形態でリリースされた。 また、1979年にアルファレコードがアメリカのA&Mレコードと契約。本アルバムをリミックスした『イエロー・マジック・オーケストラ (US版)』がホライズン・レーベルからリリースされる。アメリカでのリミックス版を「米国版」(またはUS版)、オリジナルを「日本版」と呼ぶこともある。アメリカのリミックスは、トミー・リピューマの長年のコンビのエンジニア、アル・シュミットがキャピタル・スタジオで行っている。「日本版」「米国版」の他、解説などを省略した廉価版として両方が入った2枚1組のCDも発売されたことがある。 1992年3月21日に初CD化され、その後は1994年6月29日にCDのみ再リリースされ、1998年1月15日には紙ジャケット仕様として再リリースされた。 1999年9月22日には細野監修によるリマスタリングが施され、ライナーノーツを江口寿史が担当する形で東芝EMIより再リリースされた。 2003年1月22日には坂本監修により紙ジャケット仕様にてソニー・ミュージックハウスより再リリース、音源は1999年の細野監修によるものが採用された。 2010年9月29日にはブルースペックCDとして再リリースされ[8][9][10][11]、2018年11月28日にはSACDハイブリッドとして再リリースされた[12]。 アートワークジャケットデザインは脇田愛二郎が担当した。本作がリリースされた頃にメンバーは髪型をテクノカットにしているが、これは小澤征爾が北京交響楽団の指揮をしている場面を見た事に影響されて始めたものである[3]。また本来メンバーとして想定していた横尾にも同じ髪型をして記者会見に来るよう依頼したが、横尾は「その日は足が向かなくて、家から出なかった」と述べ記者会見には現れず、結果としてYMOは3人でスタートする事となった[3]。 ツアー本作リリース後にはライブツアーは開催されていない。単独のライブとしては10月25日、26日に坂本の『千のナイフ』発売記念ライブが六本木のピットインにて開催され、「坂本龍一&イエロー・マジック・オーケストラ」という名義で初ライブが行われた[4]。この時の参加メンバーは渡辺、矢野誠、高中、浜口、松武であった[4]。 12月5日には新宿の紀伊國屋ホールにて開催されたアルファレコード主催のイベントライブ「フュージョン・フェスティバル」に出演し、本作の収録曲以外にもピンクレディの「ウォンテッド (指名手配)」(1977年)、坂本の「千のナイフ」、「プラスチック・バンブー」、「ビハインド・ザ・マスク」などが演奏された[4]。この時期に来日していたA&Mレコードのプロデューサーであったトミー・リピューマは、「私は、この音楽を世界に広めなければならない」と発言し、後に本作がアメリカ合衆国でリリースされる事となった[4]。 批評
収録曲
曲解説A面
B面
スタッフ・クレジットイエロー・マジック・オーケストラ
参加ミュージシャン
スタッフ
リリース履歴
カバー2005年1月26日シムーン」と「マッド・ピエロ」ではヴォーカルに細野が参加。「コンピューター・ゲーム」の電子音までも生楽器で再現している。 にといぼっくすがアコースティック楽器で本アルバムを完全カバーしたアルバム『アコースティックYMO』をリリース。「脚注注釈
出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia