第39回衆議院議員総選挙
第39回衆議院議員総選挙(だい39かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1990年(平成2年)2月18日に日本で行われた国会(衆議院)議員を選出する総選挙である。 概要平成時代初の衆議院総選挙となった。 野党は前年の第15回参議院議員通常選挙の再現のために再び消費税導入の是非を争点にし、選挙前から衆議院でも自民党を過半数未満にしようとして消費税を最大の焦点とし、マスメディアでも報道されていた。しかし、実施1年を経て消費税導入自体へ反対する投票者が激減したため、自民党は275議席という過半数どころか安定多数を大きく上回る議席を獲得した。逆に社会党を除く、公明党、共産党、民社党など、野党は大きく議席を減少させた。参議院選挙から7か月で再び与党自民党を信任した衆議院選挙の結果を受けて第2次海部内閣が発足した[1]。 一方で、確実にバブルであったとして後に評されることになる、この頃の好景気を、与党は自民党政権の成果と主張、与党有利の情勢とみられ、自民党勝利は事前にかなり予想されていた。皮肉なことに、自民党勝利とともに、株式の世界でいう「好材料出尽くし」感が漂い、選挙前37,460円(2月16日)であった日経平均株価は週明けの19日には37,223円に下落、その後も下落を重ね、選挙前の水準に戻ることもなく、年末(12月28日)には23,849円となった[2]。バブル崩壊の第一段階となった株式バブルの崩壊の引き金となる様相を呈した。 1967年(昭和42年)1月29日の第31回衆議院議員総選挙以来23年ぶりに、1~3月期に行われた衆議院議員総選挙となった。2024年(令和6年)現在、1~3月期に行われた衆議院議員総選挙はこの第39回が最後である[3]。 2024年(令和6年)現在、中日本出身首相の下で行われた大型国政選挙はこの選挙と、石川県出身の森喜朗の首相在任中の第42回衆議院議員総選挙(2000年〈平成12年〉)の2回である[注釈 2]。 選挙データ内閣解散日解散名
公示日投票日改選数
選挙制度投票方法選挙権
被選挙権
有権者数
同日実施の選挙等
選挙活動党派別立候補者数
主要政党のほか、真理党(麻原彰晃、上祐史浩など25名)、地球維新党(太田竜、東郷健など25名)、スポーツ平和党(細木久慶)、緑の党、日本労働党、社会主義労働者党などのミニ政党も候補者を擁立した。 選挙報道選挙特別番組
主な争点政策政局
選挙活動党派の動きキャッチコピー
選挙結果1989年4月の消費税導入後最初の総選挙であり、当初自民党は前回の第38回総選挙での300議席の圧勝からの反動も重なって厳しい戦いになると予測されていた。実際、1989年7月の第15回参議院議員通常選挙では当選者数で社会党を下回り、参議院での過半数を大幅に割り込んで大敗北を喫している。しかし、1989年秋に一気に進んだ東ヨーロッパ諸国の民主化によりソビエト連邦を中心とした東側社会主義陣営の崩壊が進んだ事で、自民党はこの選挙の争点を「体制選択」と設定することに成功した。好調な経済(「バブル景気」)を享受する国民の反共・保守的意識に訴えかけ、さらに参院選での惨敗や海部の清新なイメージから、有権者に「もう十分だ」と思わせることにも成功。前年に47歳で幹事長に就任した小沢一郎は、総選挙に際して経団連の斎藤英四郎会長に300億円の献金を要請したとされ[5]、後々まで続くその「剛腕」ぶりが喧伝されるようになっていった。結果的に現職閣僚で運輸大臣の江藤隆美、ベテラン議員の松野頼三、山中貞則、天野光晴、竹内黎一、藤本孝雄、佐藤文生、大村襄治、堀内光雄などといった重鎮や閣僚経験者、問題発言を起こした堀之内久男、松田九郎[6]などが落選するものの、議席減を小幅に食い止め、追加公認を含めた議席数は286として、衆議院での単独過半数を維持した。 一方、社会党は前年の参議院選挙での圧勝を受け、衆議院での与野党逆転と政権獲得を目指した。しかし、長期低落傾向で党の基礎体力が落ちていたため、新たな候補者選定作業は難航し、特に中選挙区制での過半数議席獲得では絶対に必要な複数候補の立候補方針に対しては現職議員からの抵抗が強かった。また、立候補の勧誘でも、資金難のため落選した場合の生活保障ができず、断られることが多々あったという[7]。土井は選挙協力した社公民と社民連を合わせて、定数512人に対し社会党で180人、公民社民連の3党で120人、計300人の擁立を見込んでいた[8]。しかし、公民が苦戦を予想して候補者を減らしたことも相まって、公認候補は社会党149人、公民社民連3党で108人、計257人(系列の無所属は29人)と過半数ぎりぎりに留まった。公認だけで338人(保守系無所属は109人)擁立した自民党との体力差は歴然としていた。野党は全体的に、候補を立てる能力が衰退していたといえる。 それでも社会党の当選者は1967年の第31回総選挙での140議席以来の議員数となったが、その半分は公明党・民社党などの他野党から奪った議席だった(特に民社党は議席をほぼ半減させている)。公明党は元書記長の大久保直彦や政審会長の坂口力、民社党は国対委員長の吉田之久と幹部級が落選し、打撃となった。共産党も前職13人が落選し、公示前から10議席を失っている。社民連は前職4人全員が当選し公示前勢力を維持した。前回の衆院選後に新自由クラブが解党され、元代表の田川誠一は唯一自民党に戻らず進歩党を結党し、前年の参院選に続いて衆院選に臨んだが、前議員の田川のみが議席を獲得している。 なお、この総選挙で野党から初当選した中には、およそ20年後の民主党政権で入閣するなど中枢入りした者が多く含まれている。社会党からは輿石東(民主党幹事長)、赤松広隆(農林水産大臣)、大畠章宏(経済産業大臣・国土交通大臣)、仙谷由人(内閣官房長官)、細川律夫(厚生労働大臣)、松本龍(環境大臣)、岡崎トミ子(国家公安委員長)、民社党からは柳田稔(法務大臣)、高木義明(文部科学大臣)、小平忠正(国家公安委員長)。無所属で鉢呂吉雄(経済産業大臣、当選後社会党に入党)。また、岡田克也(民主党幹事長・外務大臣)は自民党から初当選している。 一方で、田中角栄、福田赳夫、鈴木善幸の首相経験者や坂田道太、福田一、田中龍夫、赤城宗徳、稲葉修、小坂善太郎、小坂徳三郎といった議長・閣僚経験者、石橋政嗣、竹入義勝、佐々木良作、村上弘といった野党の委員長経験者を含む多くのベテラン議員が立候補せず、当選したベテラン議員の中でも安倍晋太郎や斎藤邦吉、丹羽兵助、山村新治郎などが任期途中に死去し、金丸信が自身の不祥事の引責により議員辞職するなど、世代交代を進める形となった。 また、特筆すべき点としてオウム真理教が真理党を結成し、教祖(党首)の麻原彰晃(本名:松本智津夫)以下教団幹部を中心に首都圏の選挙区に25名を擁立したが、全員が落選し供託金を没収される惨敗に終わった。この事はオウム内部で暴力による権力奪取の必要性を認識させ、一連のオウム真理教事件を引き起こす凶暴化の伏線になったとされている。 →詳細は「真理党」を参照
党派別獲得議席
党派別当選者内訳
政党
議員当選者自由民主党 日本社会党 公明党 民社党 日本共産党 社会民主連合 進歩党 無所属 補欠当選等
初当選
返り咲き・復帰
引退
落選
記録的当選・落選者
選挙後国会
政党公明党と民社党は、社会党が社公民路線と呼ばれる野党連立政権の相手と想定していたが、この選挙で社会党が一人勝ちしたことに反発し、社会党との連立政権協議を打ち切った。そして、自公民路線と呼ばれる保守・中道連携路線が定着していった。また、共産党は消費税への反対票が社会党に集中し、自民党による体制選択の争点化でダメージを受けたため、議席数がほぼ半減した。 なお、この総選挙では宗教団体のオウム真理教(現:Aleph)が「真理党」を結成し、教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)や信徒の上祐史浩など25人を立候補させたが、供託金没収の惨敗となった。特に麻原が出馬した東京都第4区では、開票に不正がないか確かめるため、信者3人にわざと本名の松本智津夫で投票させた上で、開票時の立会時に票を確認させた。実際には発見するのは至難の業であるが、麻原は松本票を確認できなかったことを「選挙不正」であると喧伝した(野田成人著『革命か戦争か』)。これを機に教団が武力による権力掌握に方向転換、後の松本サリン事件や地下鉄サリン事件といった一連のオウム真理教事件へとつながったと言われている。 脚注注釈当選者注釈
出典
関連項目参考文献
外部リンク
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