大山のぶ代
大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年〈昭和8年〉10月16日[注 4][8][9] - 2024年〈令和6年〉9月29日[17])は、日本の女優、声優、歌手、脚本家、エッセイスト、タレント[18]。 東京府東京市渋谷区伊達町(現・東京都渋谷区恵比寿三丁目)出身[5][6][注 5]。アクターズ・セブン最終所属。夫はタレントの砂川啓介[4][9]。テレビアニメ『ドラえもん』でドラえもんの声を1979年から2005年まで約26年間にわたり担当したことで知られる[6][11][19][20][21]。 生涯生い立ち四世代が同居する13人家族の13番目として生まれる[6][21]。江戸時代生まれの曾祖父母がいる大家族で[6][20]、母は宮城県古川市(現:大崎市)の造り酒屋の娘だった[5]。 渋谷区立臨川小学校[4]、渋谷区立広尾小学校[4]、渋谷区立広尾中学校[4]、東京都立三田高等学校卒業[1][2][7]。 幼少期から個性的な声を持っていたといい、幼稚園の入園式では名前を呼ばれ返事をしたところ、並みいる保護者らが一斉に立ち上がり視線を注いだという[9]。しかし、当の大山はそんなことに無頓着で全然気が付かなかった上、母に「十分黙っていればおやつをあげる」と言われるほどおしゃべりな性格だったという[9][21][22]。 小学校入学後も、最初はその声を張り上げ校庭を駆け回る活発な少女だったが、周囲から「男みたいな声」とたびたび言われ、教師からも出席確認の返事で変な顔をされるなど、次第に「私の声っておかしいんだ」と思うようになる[9][21]。中学進学後、同級生に「お前の声はおかしい」と指摘されたことで初めて個性的な自分の声を自覚したといい[7]、その声に嫌悪感を持つようになったため無口になってしまったという[21]。 その声が原因で「大山が声を出したらみんなで笑う」という遊びが流行るなどいじめを受けたこともあったといい、引っ込み思案になっていたところに母が「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。声を出すような部活動をしなさい」と助言したことから、放送研究部に入部してアナウンスをしたり自作したラジオドラマを披露するようになる[7][22][23][24]。その時に自分で自分の声を「この声でいいんだ」と思えるようになったことで、コンプレックスを乗り越えることができたと語る[7]。しかし、この時に自分が声の仕事をするようになるとは思ってもいなかったという[7]。なお、これらの活動は周囲や担任教師に反対されたが、1か月経つと何も言われなくなり、その後は勧誘を機に演劇部へ入部[22][23][24]。『シンデレラ』の継母役を演じ、これが初舞台となった[22][23][24]。 高校では演劇部と水泳部に入部するも母の入院ですぐに退部し、母は2年生の時に子宮癌により42歳で死去[22][25]。独り身となったことで、手に職をつけるため演劇の道に進んだという[23][26]。 キャリア俳優座養成所に第7期生として入所するが、反対していた父から「役者になるなら出ていけ!」という言葉を受けたことで家出し、一人暮らしを始める[注 6][9][23]。以降、応援してくれた兄からの仕送りだけでは生活できず様々なアルバイトを経験した[23]。養成所での同期には、水野久美、露口茂、井川比佐志、山本學、藤岡重慶、田中邦衛がいる。 1956年、NHKドラマ『この瞳』でデビュー[5][9]。養成所時代から女優としての活動を始め、卒業後の1957年には劇団新人会に入団した[2]。 活動をはじめると「面白い子」「新劇出身の喜劇役者」という評価を受け、多くのドラマやお笑い番組に出演[10]。また、知人の関係者から「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われ、声優としての活動も始めるようになる[2][23]。デビュー作は、1957年9月に放送した『名犬ラッシー』の吹き替え[27][10]。その後、1960年に人形劇『ブーフーウー』のブー役を演じたのがきっかけになり、声の仕事が増えてくるようになった[23]。 1965年、テレビアニメ『ハッスルパンチ』にて初主演。その後、『ハリスの旋風』や『無敵超人ザンボット3』など複数の作品で主演を務めた。 東京プロ[3][14]、劇団でく[14]、高松里友子事務所[28]、青二プロダクション[3][29]に所属していた。 1979年、テレビアニメ『ドラえもん』(テレビ朝日系)にて、主人公のドラえもんの声を担当。2005年までの約26年という長期間にわたり演じ続け、自他ともに認める代表作となった[30]。また、タレント活動や料理研究家として本を出版するなど、声優業以外にも幅広い分野で活躍するようになった。 1980年には、EP『ドラえもん音頭』など大山が歌ったドラえもん関連のレコード売り上げが100万枚を突破し、日本コロムビアのゴールドディスクを受賞した[31]。 2001年、直腸癌が判明し長期入院となったことで、『ドラえもん』以外の仕事をすべて降板し休養。『ドラえもん』の収録のみは、大山の体調を考慮した上で続投した[32][33]。だが、この入院を機に大山はドラえもん役の降板を決意する[32]。最初はスタッフの説得で続投したが、長期的に話し合いの結果、2005年3月に他のキャスト全員と共に『ドラえもん』を降板した[33]。 ドラえもん降板後『ドラえもん』降板後は、講演やタレントとしてのテレビ・ラジオ出演を中心に活動。『元祖!でぶや』などのナレーション活動にて、声優としての活動も続けた。 2006年5月、ドラえもんの声優としての26年間を中心に記した自伝エッセイ『ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話』(小学館)を上梓した。 2006年11月、第11回アニメーション神戸にて『ドラえもん』での功績が称えられ、レギュラー陣(小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太)と共に特別賞を受賞[35]。翌2007年3月にも、東京国際アニメフェア2007で第3回功労賞を4人と共に受賞した。 2007年4月、音響芸術専門学校(東京都港区西新橋)の校長に就任。カリキュラム編成のほか、声優・アナウンス専門課程で昼間・夜間部の授業を数多く担当するなど、直接学生の指導に当たった。 2008年4月24日、音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に脳梗塞を発症して緊急入院したが、投薬治療を行い、同年8月17日に退院。自宅療養とリハビリにより、日常生活の不安はないまでに回復し、活動を再開した[36]。 2010年、PSP用ゲームソフト『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』にモノクマ役で出演。同シリーズでは以降もモノクマ役で出演し、2013年にテレビアニメ化された『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』は『ドラえもん』以来のテレビアニメへの出演であると同時に、初の深夜アニメ出演となった。 2011年4月、音響芸術専門学校の校長を退任し名誉学長となる。多くの実務から離れる一方、2013年までは数か月に一度の特別講義を行っていた[37]。この前後を境として、多忙・激務が続いたことによる体調不良を理由に、徐々にではあるが仕事をセーブするようになった。 闘病・死去2012年秋、アルツハイマー型認知症との診断を受ける[38]。当初は夫の砂川啓介が「ドラえもんや彼女のイメージを崩す」と心配したことで内密にされたが、知人である毒蝮三太夫のアドバイスを機に砂川は「このまま隠すことが辛い」「周囲にもこのままでは心配をかけるし、誤った情報が流れかねない」と考え直し、大山とも相談[33]。2015年5月13日、TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』にゲスト出演した砂川の口から初めて公表された[39][40]。なお、発表時の大山本人は話し合ったことを忘れていたという[33]。 発表後も活動は継続した一方、公の場に姿を現すことはなくなり、仕事はメッセージの収録など限られたものになった。2014年から2016年にかけて、全国農業協同組合連合会のWebアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」(計17話)にみの太役で出演しているが、これが最後に出演したアニメ作品となった。 2015年6月12日、砂川は大山と数多く共演してきた黒柳徹子の番組『徹子の部屋』に出演。大山は黒柳に対してボイスメッセージを送った[41]。この放送で、大山は自身の病が公表されたことを自覚したといい、感想は「なんで、こんな大げさに…」だったという。その後、砂川から「ちっとも大げさじゃないんだよ」「元気になるためにも、本当のことを知ってもらって頑張らないとな」と声をかけられると大山は「うん、あたし、頑張るわ」と答えたという[33]。 発症からしばらくは大山の意向もあり、砂川や夫妻のマネージャーである小林明子、家政婦による在宅介護を受けていたが[33]、砂川の尿管癌治療に伴い、2016年4月より老人ホームに入所[42][43]。同時期には、持ち役である『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役も降板[44]。同年内で芸能活動を事実上終了した。 2017年7月11日、夫の砂川が死去[45]。早朝のため、大山は臨終には立ち会えなかった。数日後、大山は葬儀所で棺の中の砂川と対面。葬儀は大山が喪主となったが出席はしなかった[46][47]。 砂川の没後も大山は引き続き老人ホームで過ごしており、後事を託されたマネージャーの小林が通って面倒を見ていた[48][49][50]。2017年時点では認知症は進行しているが健康状態は良く、合唱などの活動に取り組みリーダー的存在となるなど、他の入所者との交流を楽しんでいたという[51][50]。 しかし、2024年に入ってからは老衰の影響から会話も難しくなり、発熱や貧血など体調不良が続き、入退院を繰り返していたという[52][53]。同年9月19日が最後の入院となった[53]。最後の入院から10日後の2024年9月29日16時23分、老衰のため東京都の病院で死去[54][50]。90歳没。マネージャーの小林は同日になって病院から危篤の連絡を受けたものの最期を看取ることはできなかったが、静かに息を引き取ったと話している[53]。訃報は同年10月11日、所属事務所のアクターズ・セブンにより公表された[55]。同年10月12日放送分の『ドラえもん(テレビ朝日版第2期)』では、追悼テロップと特別映像が番組終盤に流された[56][57]。その翌日に放送された『サザエさん』では番組冒頭で追悼テロップが流された[58]。藤子・F・不二雄ミュージアムや水田わさびなども哀悼の意を表した[59][60]。葬儀では、棺に夫である砂川の写真と大山が好きだった虎屋の栗ようかん、ドラえもんのぬいぐるみなどが入れられた[61]。 2025年3月14日、第48回日本アカデミー賞 会長特別賞を贈賞された[62]。 3月19日、『徹子の部屋』大山追悼企画に毒蝮三太夫が親友代表でゲスト出演して、共通の親友でもある黒柳徹子と大山との思い出話を語っている。 特色・人物像声優としては、アニメ黎明期より活躍[64]。「ウヒヒ」とも「ウフフ」ともつかない独特の節回しの笑い声が印象的と評された[64]。 『ドラえもん』以外の作品でも少年役が多く、ハスキーボイスでやんちゃな喋り方が特徴的でべらんめえ口調も多用した。 座右の銘は「私はパイプになりたい」[7]。これは、言い伝えや諺など、先人たちから受け継いだ良いものたちを次の世代に渡していく役割になりたいという思いからである[7]。 料理研究家としても活動し、多くの著書を発表。中でも『大山のぶ代のおもしろ酒肴』(1981年、主婦の友社)は、136万部のミリオンセラーを記録した[31]。 2022年2月、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『これが定番!世代別ベストアニメ エンタメジェネレーション』では、世代別で「好きな声優」がアンケート集計され、大山が「昭和世代(46歳以上)」の部で1位となった[65]。 私生活夫の砂川啓介とは、1963年(昭和38年)8月に舞台『孫悟空』での共演で知り合い、翌年2月に結婚した[66]。二人は知り合った当時、NHKの『おかあさんといっしょ』にレギュラー出演していたが、出演していたコーナーが違うことから面識はなく、楽屋に挨拶に来た砂川を出前のそば屋だと勘違いしたというエピソードがある。その後一緒にドライブに行った際、不良に絡まれている少年を見かけ、お互い相談もしていないにもかかわらず、とっさに田舎から出てきた夫婦を演じ、その不良に道を尋ねるふりをして、その隙に少年を逃がしてあげたという。それから結婚を考えるようになった。 32歳の時に第1子(男児)を妊娠したが、7か月目に死産[67]、38歳の時生まれた第2子(女児)も妊娠7か月の未熟児で生まれ、先天性の心臓と肺の疾患のため生後3か月で死去しており[68]、それ以降は子をもうけていない。自伝などでは「子供に自分のガラガラ声が遺伝していじめられたらかわいそうだ」という葛藤があったとする一方で、夫の砂川の著書では「(大山が)2度の不幸から、『また同じことが繰り返されるのではないか』という葛藤やトラウマからセックスレスとなってしまった」と明かされた[69]。 同じ作品でデビューした同期の冨士眞奈美とは、デビュー後4年半ほど同居していた[5][9][70]。 趣味・嗜好アルカノイド![]() ブロックくずしゲームの『アルカノイド』(タイトー)が大のお気に入りで、自身の別荘にアルカノイドの筐体を置いていたほどであった[50][71]。自己記録は120万点[71]で、全国でも数本の指に入る高得点[72]。1988年、空港や駅の待ち時間で暇潰しとして始めたのがきっかけで、それ以降、仕事で地方へ行くとゲームセンターを巡り回った[73]。その腕前は『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)のコーナー「ムダベストテン」や『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビ系)[73]、『ゲームセンターCX』の「たまに行くならこんなゲームセンター」などのバラエティ番組でも紹介し披露された。 2005年に新宿にあるセガのアミューズメント施設で一日店長を務めた際には、多くの来客の前で実力を披露し[74]、2007年には『アルカノイドDS』発売記念イベントに招かれ、マスコミ達を前にその腕前を披露した。しかし本人によると、実はアルカノイド以外のゲームは一切できないとのことであった。 認知症の診断を受けたあとはアルカノイドをプレイすることもなくなり、別荘を売却したのと同時にアルカノイドの筐体も手放され、ゲーセンミカドが譲り受けた[75]。一般の利用客もプレイできるよう、メンテナンスが続けられ、2024年現在も稼働している[71]。大山の死去の際には、同グループの公式X(旧ツイッター)では、訃報とともに過去の「大山のぶ代さんの別荘から寄贈された筐体です!絶賛稼働中!よかったらぜひ遊んでね!」との投稿がリポストされた[71]。 料理関連
その他の趣味など
その他のエピソード
大山とドラえもん代表作である『ドラえもん』のドラえもん役は、1979年4月2日から番組リニューアルにより引退する2005年3月25日まで約26年間担当した。大山がドラえもんを演じた作品はアニメ版2作目で、第1作にて富田耕生を継いだ野沢雅子の後任にあたる。 起用演じるきっかけは、放送開始前年の1978年12月に、かつて大山が主演を務めた『ハリスの旋風』で録音監督だった浦上靖夫から声をかけられたことだったという[26][10]。 当時の大山は、自分の好みではない「人を傷つけるような」アニメが増えたことや、タレント業、時代劇・テレビドラマなど他の仕事が多忙だったことを理由に、声優業は休業していた[10][81]。だが、オファーを受けたことで、当時出版されていた原作コミックスの単行本14冊[注 8]を読んだところ、表面的には子供向けの漫画になっているが、大人でも読んでも面白いSFだと感じ、一晩ですべて読み終えると同時に、出演を引き受けることにしたという[82]。また、オファー時に見せられたドラえもんの姿に「こいつ、かわいいな」と思ったことも引き受けた理由の一つだという[26]。 パイロット版となる「おざしきつりぼり」の収録は、アニメーションの面白さに魅かれ楽しみながら演じる一方で、自身の演技に「これで合っているのか」と不安も覚えたという。後日行われた完成試写で原作者の藤子・F・不二雄に初めて会った際、心配だった大山は「先生、ドラえもんの声、あんな具合でどうですか?」と尋ねた。すると、藤子は「ドラえもんって、ああいう声をしていたんですね」と言ったという[82][81]。大山は「マンガという平面の世界で描いていた先生が、どういうドラえもんの声のイメージを持ってらしたかは別として、「ドラえもんていうのはこういう声なんだ」って思ってくださったというのが、すごくうれしい」と感じると同時に演じる方向も定まったといい、後に「役者冥利に尽きるホメ言葉だと思いました」とも話している[82][81]。 エピソード大山はドラえもんを演ずるに当たって、最初に「ドラえもんは2112年9月3日生まれ。未来からすごい知識を身につけてのび太の世界に来てるけど、あの頃の設定では、出来が悪くてバーゲンで売られている。すごい知識は身につけてるけど、ちょっと出来が悪い。ちょっと重ったるい、ヨタヨタのところもある」と考え、5 - 7歳ぐらいの男の子を意識したという[81]。また、「未来から来て、しかも子どものお世話をする育児型ロボットなら、はじめから悪い言葉は絶対インプットされてない」とも考え、「テメー」とか「ヤロー」などの悪い言葉は使わず、丁寧な正しい言葉遣いを心掛けたという[81]。ロボットという感覚ではなく、ドジでおっちょこちょいだが憎めないイメージできちんとした喋り口の大山の演技は、視聴者に広く受け入れられた[83]。 「こんにちは、ボク、ドラえもんです」の台詞は、大山が発案した。悪い口調を使わないことから派生し「初めて会う人に自己紹介するのは当たり前のこと」と考えたアドリブだったといい、それが演出スタッフにも認められたという[22][81]。これはドラえもんの代名詞ともいえる台詞となり、後に発表した自伝のタイトルにも使用された。 ドラえもんの「ふーふーふーふー」という笑い方も大山のアドリブであり、放送から12、3年が経った頃、おちょぼ口のドラえもんが「ふふふ」と笑う場面で「字で書いたとおりに笑ったらどうかな」と思い試したことがきっかけだったという。この笑い方に関して大山は「すごく肺活量がいるんですよね。「ふふふ」と言うとつながっちゃうから、「ふっふっふっ」と言わないと「ふ」がでないんです。しかもマイクに風が入っちゃうとダメだから、マイクをさけてその分大きな声で言わないと大変なんです。でも、自分でおもしろいと思ったのでやったら、みんなが「おもしろい」とか「かわいい」とか言ってくれて、ずっと定着しているんですね」と語っている[84]。 幼少期の声のコンプレックスを克服し、その声がドラえもん役に繋がったエピソードは、小学校の道徳教育の資料に取り上げられたことがある。 アニメ化される以前にピー・プロダクションにより実写版『ドラえもん』(未製作)が企画された際、同プロダクションが大山主演のアニメーション『ハリスの旋風』を製作していたため、その流れでドラえもん役の候補に挙がったことがある。 ドラえもんを演じていた頃、ファンの子供がスタジオに遊びに来た際は、写真を撮ったりサインをするなど気配りをしていたが、度々「ドラえもんいますか?」と電話がかかってきて困った時期もあったという[85]。 長年に渡り共演したレギュラー陣であるのび太役の小原乃梨子やしずか役の野村道子、スネ夫役の肝付兼太、ジャイアン役のたてかべ和也の4人とは他のアニメーション作品でも共演していた古くからの声優仲間でもあり親交が深かった。特に同性の小原と野村とは3人で国内旅行や海外旅行も度々行っていた[82]。なお、過去には週刊誌で収録時のマイクの位置が離れていた小原と不仲説が報じられことがあったが、廣田トモユキが小原に確認したところによると、大山は愛煙家のためにドア側のマイクを、小原は嫌煙家のために一番奥のマイクを好んで使っていたためだという。 ドラえもん関連の商品は見ると何でも買うようにしており、自宅に「ドラえもんボックス」という大きな箱を用意して「私がドラえもんと一緒に歩いてきた記念」と大量のドラえもんグッズを収納していた[84]。1999年に『徹子の部屋』に出演した際は、毎朝自分の声のドラえもん目覚まし時計で起床していると語っていたが、この時計は降板後に「ドラえもんの卒業」を理由にオークションに出している。 「ドラえもんの道具をひとつだけ使えるとしたら」と質問された際は、「難しいですねぇ」としつつ「タイムマシンで過去へ行って悪い病気を全部お医者さんに治してもらい、もとを絶って世の中の病気をなくしたい」と答えている[84]。 大山にとってドラえもんは、子供がいなかったこともあり我が子のように大切な存在だった[2]。そのため、ドラえもんを演じるようになってからは他のアニメ作品への出演オファーはすべて断っていた[2]。また、後年のインタビューでも「すごく入れ込んでしまっている私ですので、今でも一歩引いて語ることができないくらい思い入れのある作品です。私自身もドラえもん役を演じながら、ドラえもんにさまざまなことを教わりました」と語ったことがある[82]。 卒業2001年、直腸癌の手術で長期入院となり大半の仕事をセーブしたが、本人の強い希望からドラえもんの収録のみは一切休まなかった。なお、入院は夫と事務所関係者にしか打ち明けずアフレコは体調を見ながら行うこととなり、映像(他のキャストが先に録音したもの)がたまった段階で病院からスタジオに駆けつけ、個別録音するという形で乗り切ったという[32][33]。 入院の際、大山は病床にドラえもんのぬいぐるみを持ち込み、「ねえ、あなただったらどうする」「せっかく22年もアンタと一緒に楽しくやって来たのに、私だけいなくなったら、アンタどうするの?」と自然と語りかけ涙を流すことがあったという[86][33]。そして、この時にドラえもんから励まされたような気がして手術を乗り切れたと後に明かしており[86]、夫の砂川は「彼女にとってのドラえもんの存在が、こんなにも大きいものだとは…。このとき、そのことを改めて実感せずにはいられなかった」と回想している[33]。 それまでは、しずか役の野村と共に健康で「丈夫ねえ、私たち」などと話していたが[87]、この入院で大山は「私にもしもの事があれば、大切なドラえもんに傷がついてしまう」「また今回のように急に入院したりしたら、周囲に迷惑がかかる」と考えるようになり、ドラえもんの降板を決意[32][33]。すぐに申し入れたが、この時は長年支えてきたスタッフの説得もあって引き留められた。だが、関係者の間ではこの頃から「次のドラえもんの声はどうするか」という話が持ち上がるようになる[33]。 当初は後任を立てず、“大山の合成音声”で続けるという案もでたが、これに関して大山は「合成なんかじゃなくて、あの子(ドラえもん)の気持ちを理解してくれる人に託したい」と話したという[33]。そして2004年春、スタッフ側から交代を打診され、他の声優陣とも話し合いを行った結果、2005年3月にキャスト全員と共に卒業することが決定[33]。2005年3月18日放送の『ドラえもん オールキャラクター夢の大集合スペシャル!!』が最後にドラえもんを演じた作品となり、2005年3月25日に放送した映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』のCM前のお別れコメントをもってドラえもん役を卒業した。 卒業後『ドラえもん』卒業後のインタビューでは、「ドラえもんはいつも私の中にいます。勿論、新しいドラえもんも観ますよ」と笑顔で語っている[88]。また、その後も何らかの形で周囲にドラえもんの声を披露することが多かった。 『ドラえもん』自体への公な関与としては、2015年2月に神保町シアタービルで開催された「ドラえもん映画祭2015」において以下の手紙を贈ったことが最後となった。
のび太役の小原乃梨子が、卒業後について「現役の、のび太くんの感覚で、ずっといられそうな気がします。だから、とっても楽しいときが待っていそうな気がしません?」と問いかけると、大山も「します、します」と応じている。「いるんですよね、ドラえもんは。絶えずそばに」と話していた[88]。 奇しくも小原も大山の2か月前に死去しており、大山の死去により第2作第1期のレギュラー陣(ドラえもん、のび太、しずか、スネ夫、ジャイアン)の存命者はしずか役の野村ただ一人となってしまった。 後任大山が『ドラえもん』のみに専念することによる役の降板及び高齢により、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
出演(女優・顔出し)テレビドラマ
邦画
テレビ番組NHK
日本テレビ系
TBS系
フジテレビ系
テレビ朝日系
テレビ東京系その他CM
出演(声優)太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
OVA
劇場アニメ
Webアニメ
ゲーム
吹き替え映画
ドラマテレビ番組
アニメ
ラジオ
ほか多数 人形劇
ラジオドラマ
CMドラえもんの声で出演、※は2005年4月にドラえもん降板時点によるもの。
その他コンテンツ
音楽大山のぶ代名義
ドラえもんとして
脚本著書エッセイ
料理本
その他
演じた人物
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク※以下資料で生年月日について言及しているもののうち、1936年生まれのまま掲載しているものは2021年12月時点現在で、半分ほど。 |
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