松原仁
松原 仁(まつばら じん、1956年〈昭和31年〉7月31日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(9期)。 国家公安委員会委員長(第85代)、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)・拉致問題担当大臣(野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)、国土交通副大臣(野田内閣)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、同北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長、同海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員長、東京都議会議員(2期)、民主党国会対策委員長(第21代)、同国会対策委員長代行、同東京都連代表などを務めた[3][4][5]。 来歴![]() 東京都板橋区生まれ。東京都立豊島高等学校、早稲田大学商学部卒業。大学在学中は経営史を専門とする鳥羽欽一郎ゼミでアメリカの企業等を研究していたほか、早稲田大学人物研究会に所属していた[6][7][8]。大学卒業後、松下政経塾に入塾(第2期生)[7]。 1985年、東京都議会議員選挙に新自由クラブ公認で大田区選挙区から出馬するが、落選。1989年東京都議会議員選挙に再度大田区選挙区から無所属(税金党推薦)で出馬し、初当選した。1990年6月に自由民主党会派に入会[9]。 1993年東京都議会議員選挙では自民党公認で再選するも、11月に自民党を離党し、新生党に入党[10]。無所属(鳩山邦夫直系)の中山義活や、工藤喜久治とともに東京都議会で会派「新生・友愛クラブ」を結成する[11]。 1996年、東京都議会議員を任期途中で辞職し、第41回衆議院議員総選挙に新進党公認で東京3区から出馬したが、次点で落選。 1998年、新井将敬衆議院議員の急死に伴い実施された東京4区の補欠選挙に出馬したが、再び落選。 2000年、第42回衆議院議員総選挙に東京3区から民主党公認で出馬し、当選。 2003年の第43回衆議院議員総選挙でも再選。 2004年、「次の内閣」で防災担当副大臣、科学技術担当副大臣に就任。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では東京3区で自民党の石原宏高に敗れたが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、3選。 2009年民主党代表選挙では、鳩山由紀夫幹事長の推薦人に名を連ねた。同年の第45回衆議院議員総選挙では、前回敗れた石原に4万票超の差をつけ、比例復活すら許さず4選[12]。 2010年、都連副会長に就任[7]。同年12月、雄志会(平野博文グループ)の結成に参加し、翌年1月同会副会長に就任する[13]。ただし小沢一郎の影響下にある一新会にも所属しており、2010年12月時点では「小沢グループ所属」との報道もあった[14]。 2011年9月、野田内閣で国土交通副大臣(安全危機管理関係、海上保安関係、国土、都市、道路、港湾、航空、北海道開発などに関する施策の担当[15])に任命された。あわせて、拉致問題担当大臣を兼任する山岡賢次国家公安委員会委員長の要請により、拉致問題担当副大臣を兼任したが、自民党から反発を受けたため担当から外れた[16]。 2012年1月13日に発足した、野田第1次改造内閣で国家公安委員会委員長として初入閣。前任の山岡同様、拉致問題担当大臣、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)も兼務した[注 1]。 同年6月4日に発足した野田第2次改造内閣でも留任となったが[注 2]、同年10月1日、野田第3次改造内閣発足に伴い、就任後9ヶ月で退任。松原自身は、退任にあたっての記者会見で「日朝の本協議が行われて、8月から始まっている中において、拉致問題担当大臣の任から外れることは、私としては、極めて心残りである」と悔しさをにじませた[19]。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では民主党公認、国民新党推薦で出馬。再び石原に2,016票差で敗れたが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、5選。選挙後、民主党国会対策委員長代行及び国家基本政策委員会理事に就任した[7]。 2013年9月4日、国対委員長代行から昇格する形で民主党国会対策委員長に起用された[20]。同月13日、民主党東京都連会長に選出された[21]。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では民主党公認で出馬。再び石原に敗れたが、比例東京ブロックで復活し、6選。2015年1月に行われる民主党代表選挙では、元幹事長・細野豪志の推薦人に名を連ねた[22]。 2015年2月~3月にかけて、松原の選挙区内で松原と松原の家族を誹謗中傷する差出人、住所等不記載の大量の怪文書が「大田区選挙監視オンブズマン」という実態不明の団体名で大田区の都議会議員や区議会議員、自治会長、商店会長、有権者、各種団体に郵送、ポスティングされ、3月11日、警視庁田園調布警察署に被疑者不詳による名誉毀損罪の容疑で刑事告訴[23]。 2016年10月、民進党東京都連会長選挙が行われ、柿沢未途を破り、再選[24]。 2017年7月3日、東京都議選での民進党惨敗の責任を取り民進党東京都連会長職を辞任する意向を表明[25]。(同月18日の同党常任幹事会で辞任が正式に了承された。) 同年9月25日、民進党に離党届を提出し、その後の会見で、若狭勝、細野豪志らが結成を目指す新党へ参加する意向を表明した[26][27][28][29][30][31][32]。民進党は9月26日の常任幹事会で「党の結束を乱す行為」として離党届を受理せず除籍(除名)処分とするとともに[33][34]、比例代表選出議員であることから議員辞任勧告を行うことを決定した[35][36][37]。 9月27日、小池百合子東京都知事を代表とする新党「希望の党」設立会見に、結党メンバーとなる国会議員14人の一人として参加した[38][39][40][41][42]。 10月の第48回衆議院議員総選挙では希望の党公認で出馬。再び石原に敗れたが、比例東京ブロックで復活し、7選。11月の希望の党共同代表選挙後の党役員人事では両院議員総会長兼代議士会長に就任した[43]。 2018年、国と区を結ぶ政策グループ「ガンバル」を設立。元プロレスラーで品川区議会議員の木村健悟らが加盟し、2019年4月の第19回統一地方選挙では東京都大田区、品川区、目黒区より候補者を擁立した[45]。 2019年5月7日、会派「社会保障を立て直す国民会議」に入会した[46]。 2020年9月3日、立憲民主党と国民民主党の合流新党(新・立憲民主党)への入党受け付けが締め切られ[47]、9月7日には玉木雄一郎を中心とする新「国民民主党」に加わる国会議員の募集が締め切られた。松原はこの時点ではいずれに対しても参加の意思を表さなかったが[48]、9月14日、新「立憲民主党」に入党を届け出た[49]。 2021年10月の第49回衆議院議員総選挙では立憲民主党公認で出馬し、直近3回の選挙で敗れ続けた石原に8,208票の差で勝利し8選[50]。 2023年6月9日、立憲民主党に離党届を提出[51][52][53](12日、党への公認依頼も撤回した)。同日に記者会見を行い、次期衆院選では小選挙区の区割り変更に伴い新設される東京26区(大田区の一部と目黒区)から無所属で立候補すると表明した[51][52][53]。松原は離党の経緯として、地盤としていた旧東京3区(品川区と大田区の一部と島部)は区割り変更により新東京3区(品川区と島部)と26区に分かれる形となり、東京都議会議員時代からの地盤である大田区が含まれる26区での立候補を希望したが、都連側は新3区での立候補を求め、要望が認められなかったことを挙げた[51][52][53]。また、当面は立憲民主党会派所属のまま国会活動を続ける意向を示した[54]。同月15日付で離党届が受理された[55]。 2024年10月27日の第50回衆議院議員総選挙で9選[56]。 政策・主張憲法
経済財政政策
沖縄対策
道路行政
受動喫煙問題
その他
政治資金
人物
発言選挙歴
所属団体・議員連盟
所属委員会出演番組
著書
脚注注釈参照
関連項目外部リンク
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