荒井注
荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本のコメディアン、俳優。ザ・ドリフターズ元メンバー。東京都出身。本名は荒井 安雄(あらい やすお)[3][4]。 来歴四谷にて生まれる。家は料亭を営んでいた。旧制日本学園中学校を経て、立教大学文学部宗教学科を中退後、二松學舍大学文学部国文学科卒業。 大学卒業後は脚本家を目指しながら、音楽バンドグループ『クレージーウエスト』のバンドマンを務めていた。なお、二松學舍大学在学中に中学と高校の教員免許(高校の科目は国語[5][6])を取得したことから[7]、同大学卒業後に教師を務めたことがあるとの文献もあるが、真偽は不明である。芥川龍之介や太宰治を愛読する文学青年という一面もあった。 1958年に大学卒業とともに数々のバンドを経る[8]。 ザ・ドリフターズ時代![]() 1964年に「トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる」との評判を聞きつけたいかりや長介にスカウトされて、ザ・ドリフターズに参加。初任給は42000円だった[9]。担当楽器はピアノだが、ロカビリーのスリーコードしか弾けなかったという話がある。クレージーウエスト時代はスチールギター担当だったが、人数の関係でピアノに転向させられた経緯によるもの。その一方で「速弾きを得意とした」(居作昌果)や「一応弾けたが、指が短いために時々半音ずれた」(加藤茶)「上手いという訳ではないが、何となく形にして見せることが出来た」(高木ブー)とも言われている。 いかりや長介の著書には、荒井の背の低さとピアノの演奏力をチェックしなかったことが失敗だったとある。しかし、この人選の失敗が「ふてぶてしい」荒井のキャラクターと相まって、ドリフの人気に繋がった。 ドリフ入りした直後、渡辺プロダクションの重鎮で、加藤を始め多くの芸名の命名に携わったハナ肇の「芸人は水に関係する名前が良い」という考え方から「〜を注ぐ」から採って「注」という芸名を名付けられた。また加藤曰く「要注意人物」だからだという説もある。 いかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間は年齢を6歳若くごまかして公表(昭和9年(1934年)生まれ)しており[10]、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由について、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さんより俺が年上だと具合が悪いからさ」と説明していたが[11]、本当のところは女性にもてたかったのではないかと、いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中でコメントしている[注 1]。 ドリフでは「This is a pen!」のギャグで人気者になった。コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見て無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが受けた。学校コントでは「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定であった。中でも代表的なギャグ「何だバカヤロウ!」「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、ドリフ脱退後のピンでの活動でも頻繁に使用した。このうち「何だバカヤロウ!」は、ピアノ担当なのに鍵盤が弾けないことを加藤茶にからかわれた時に言い返したのが発端であり、いわゆる逆ギレ芸の先駆けともいえる。 ドリフ在籍の後半は「ハゲキャラ」としていじられることが多く、当時『8時だョ!全員集合』のコーナー『少年少女合唱隊』で共演した由紀さおりからは、数え歌まで披露されている[注 2]。 1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。TBSプロデューサーの居作昌果によれば、いかりやのワンマンぶりが気に入らなかったことや、ギャラの配分をめぐる不平などが関係していたとされる。一般発表したのは『8時だョ!全員集合』の生本番中で、いかりやによって発表されたが、いかりやのコメントは、「(荒井は)暫くお休みを頂く」というものであり、脱退するとは一言も発しなかった。 荒井の後任には、ドリフのボーヤをしていた志村けんが加入した。なお、新生ドリフメンバーの脱退は荒井が最初ではなく、結成翌年の1965年頃に綱木文夫が脱退[12]して以来2人目である。 ザ・ドリフターズ脱退後「芸能界を引退する」と言ってドリフを脱退したが、わずか半年後に芸能界に復帰したため、和解に3年を要したという話がある[注 3]。 その後も、ドリフの番組にゲスト出演しており『全員集合』の最終回にもゲスト出演し、いかりやに花束を手渡している。また『全員集合』オープニングの振付師でもある藤村俊二とのコンビで『なるほど!ザ・ワールド』にも準レギュラーとして出演していた。 俳優としての活動も展開し、土曜ワイド劇場の人気シリーズである井上梅次監督・天知茂主演『江戸川乱歩の美女シリーズ』に1978年の第2話より明智の盟友、波越警部役で出演。天知の死去により最終作となった1985年の第25話まで演じた。 私生活では1983年、10月5日の銀婚式直前にして荒井は二松学舎時代に学生結婚で結ばれた妻の弘子を肺がんで[13]9月30日に亡くす、子供はいなかった[14]。告別式は3日に行われドリフターズのメンバーが参加し「おれたち芸能人は、女房に見えない所で負担をかけてるのかなあ」といかりやはコメントした[14]。 1985年、 ミス世田谷にも選ばれた学習院大学英文科[15]卒で新日鉄の重役秘書[16](副社長秘書[17])の24歳MとMの両親の大反対を押し切り[17]2月16日に入籍し再婚[18]。 馴れ初めは経営する千葉白浜の「海の家」で[19]1984年夏に出会ったことであった[20]。 しかし86年の6月にMは家に帰っていった[20]。そして「どうしても今年中にケリをつけたい」と言われ[20]、1986年12月22日に協議[20]離婚[17]。 理由は「米のとぎ方から教えるぐらい家事ができなかったので疲れた」としている[15](最初はもの珍しさもあって教えていたがだんだん疲れてきたとも[20])。 「やっちゃん」と呼ばれていた[20]。 1991年5月2日[21]、ラーメン屋の娘[22]でゴルフ仲間のOL[21]のMと再再婚、「一生面倒を見てくれると言ってます」とコメントした[21]。 数年前から家族ぐるみで付き合いがあり、なれそめは風呂場で転倒した荒井の身の回りの世話をMがしたことで新婚旅行はハワイだった[13]。 1992年、嘉門達夫の替え歌メドレー3(完結編)に、ゲスト・ボーカルとして登場。これが荒井最後のシングル曲となった[注 4]。 晩年は静岡県伊東市に移住し、個人事務所・荒井注事務所を自宅内に設置していた。伊豆でカラオケボックス経営事業を発案して建物を建設したが、完成した建物の入口が狭すぎてカラオケ機材の搬入が出来ないというミスから、建物はそのままで経営を断念したことがある。この件はワイドショーで取り上げられるなど話題になり、レポーターに対し「何だバカヤロウ!」と往年のギャグを発した。なおこのカラオケボックスになる予定だった建物はその後放置され、廃墟化した状態のまま現在も伊東市内に残っている。 2000年正月放送のフジカラー「お正月を写そう」の広告撮影は、弁財天役の田中麗奈とドリフメンバー5人に加えて、荒井も毘沙門天役で共演し[注 5][23]、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初荒井は出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役が1人足りなかったため広告代理店が荒井に声を掛けた所、荒井が承諾して出演が決まった。 そのCM出演から間もない2000年2月9日(水曜日)午前4時30分、伊東の自宅において入浴中に肝不全[8]のため71歳で亡くなった(享年71)。 所属事務所社長で葬儀委員長の網井雄三は「死んだ日にはドリフのメンバーが全員駆けつけてくださった。」とコメント[24]。 葬儀にはドリフのメンバーが全員参列し、弔辞はいかりやが担当した。遺骨はオーストラリアのケアンズに散骨された。以下はいかりやによる弔辞である。
荒井の死後、いかりやは荒井を追悼する意味合いも込めて、荒井との思い出を書き綴った自伝『だめだこりゃ』を出版。この『だめだこりゃ』は、いかりやの存命中に文庫化もされた。この後、いかりやが「じゃあ、いずれ」の言葉通り他界したのは、4年後の2004年3月20日のことであった。 妻が喪主となり11日[25]午前11時から伊東市吉田1026の2の総祭式典会館白寿で行われた[4]、糖尿病患者で[26]、腎臓病だった[20]。 所属事務所社長の網井雄三の呼びかけで、参列者らが荒井のギャグ「なんだバカヤロー」を唱和した[27]。インタビューを受けた仲本工事は「私らの方が『何だバカヤロウ!』ですよ」と泣きながら答えていた。 しかしその後、しかし荒井注の4人いる妹の代理人を無報酬で務める荒井の親友との間で3億とされる遺産と「遺産は全て妻に譲る」という遺言状の正当性を巡り裁判沙汰になった[28]。 遺産は4億円ともされ、代理人は「死後奥さんが困らないようにといってました」としつつも「(鑑定の結果が)本物だったら責任をとる」と言って住所が書かれていない点などを理由に遺言状の正当性について疑問視、妻のMは事実無根とし「現物は私の手元に、コピーは裁判所にある」としどこで遺言状を見たのかと疑問視し更に代理人について「付き合いは控えた方がいい」と荒井から言われたとしている、荒井は妹たちとは没交渉だが遺言が無効だった場合4分の3の3億円がMへ、残り1億円が4人の妹で分けられる[29]。 私生活出演作品ドリフメンバーとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照。 テレビドラマ
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脚注注釈
出典
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