1968年の東映フライヤーズ(1968ねんのとうえいフライヤーズ)では、1968年の東映フライヤーズの動向をまとめる。
この年の東映フライヤーズは、大下弘が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
1961年以来7年間監督を務めた水原茂が勇退、東急時代の名選手・大下弘が新監督に就任した。大下監督は読売ジャイアンツの川上哲治監督に対抗すべく、「サイン無し、罰金無し、門限無し」の「三無主義」を掲げる(実際は大川博オーナーの提案)。チームは4月こそ3位で終えるものの、6月以降は西鉄との最下位争いが続いた。肝心の「三無主義」はオープン戦では好調だったものの、シーズンでは主義が逆効果となり、また、毎年Bクラスの常連だった近鉄の好調もあって下位に低迷したため、遂に8月3日限りで大下監督は休養。シーズン終了後は、契約の関係上先乗りスコアラーとして残留した。8月4日から飯島滋弥が代理監督となったがそれでも盛り返せず終わってみればチーム初の最下位、「三無主義」は全くいい所が無かった。最後は2連覇の阪急に29ゲーム、3位の東京には16ゲームも離される惨敗に終わった。投手陣は、チーム防御率が前年の3.19から3.97へ低下した一方で打撃陣は.248でリーグ2位、118本塁打はリーグ4位とまずまずだったが、盗塁数がリーグ最下位に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1968年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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近鉄 |
--
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近鉄 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
阪急 |
4.0
|
阪急 |
1.5
|
南海 |
3.0
|
南海 |
1.5
|
南海 |
2.0
|
南海 |
4.0
|
南海 |
1.0
|
3位
|
東映 |
5.5
|
南海
|
近鉄 |
3.5
|
東京 |
3.5
|
東京 |
6.5
|
東京 |
10.0
|
東京 |
13.0
|
4位
|
南海 |
6.0
|
東京 |
4.0
|
東京 |
5.0
|
近鉄 |
7.0
|
近鉄 |
14.5
|
西鉄 |
21.0
|
近鉄 |
23.0
|
5位
|
西鉄 |
7.0
|
東映 |
5.0
|
東映 |
7.5
|
東映 |
13.0
|
西鉄 |
17.0
|
近鉄 |
22.0
|
西鉄 |
24.0
|
6位
|
東京 |
7.5
|
西鉄 |
6.0
|
西鉄 |
11.0
|
西鉄 |
14.0
|
東映 |
23.0
|
東映 |
27.0
|
東映 |
29.0
|
[1]
オールスターゲーム1968
できごと
選手・スタッフ
|
---|
監督 | |
---|
一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
---|
投手 | |
---|
捕手 | |
---|
内野手 | |
---|
外野手 | |
---|
[2][3]
表彰選手
リーグ・リーダー
|
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
張本勲
|
首位打者 |
.336 |
2年連続3度目
|
最高出塁率 |
.437 |
2年連続4度目
|
ベストナイン
|
選手名 |
ポジション |
回数
|
張本勲 |
外野手 |
9年連続9度目
|
ドラフト
出典
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---|
1940年代 | |
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
---|
2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |