2010年9月民主党代表選挙
2010年9月民主党代表選挙(2010ねん9がつみんしゅとうだいひょうせんきょ)は、2010年(平成22年)9月に行われた民主党代表選挙である。 概説2008年(平成20年)9月8日に無投票で、同職に選出された小沢一郎の任期(2年。2010年9月末日(30日)まで)満了に伴う選挙である[1]。しかし任期中途の代表交代時には、党規約(第11条7項後段)に従って任期延長はなく、このタイミングでの選挙となった[2]。 この選挙は、任期満了の選挙であり、党規約11条7項前段の「任期途中で代表が欠けた場合」ではないので、両院議員総会のみの選挙ではなく、規約が想定する正規の手続き、すなわち党代表選挙規則にもとづく“フル装備”の選挙が行われた。この形態の選挙では、投票権は国会議員のほか地方自治体議会議員、一般党員、サポーターが持つ(詳細は民主党代表選挙#概説を参照)[3]。 菅直人、小沢一郎の2名が立候補した。 選挙にいたるいきさつ政治資金問題により党代表職を退いた小沢は、代表代行として2009年の総選挙を指揮、政権獲得の功績により幹事長に就任する。小沢グループが党内最大派閥に躍進したこともあり、幹事長として党人事や資金繰りなどを一手に引き受けるのみならず、陳情の幹事長室への一元化など国政に関しても権力集中を進め、鳩山由紀夫内閣に対して影響力を行使した。しかしマニフェストと財政の齟齬・鳩山首相や小沢幹事長の政治資金問題・連立相手の社民党、国民新党との摩擦などで内閣支持率は激減し、翌2010年6月に鳩山は内閣総辞職・代表辞任に追い込まれた。同時に小沢も幹事長を退き、「謹慎」を宣言した。 代表選で小沢系の七奉行樽床伸二に大勝した副総理の菅が首相に就任する。菅は小沢への権力集中に批判的であった議員を要職に登用する。また前回総選挙のマニフェストの見直しなど財政健全化路線に切り替え、「政治主導」の修正もはかり、政策に関しても小沢の路線を転換する。内閣支持率は回復したが、財政健全化の一環としての消費税率引き上げへの言及が仇となり、再び内閣支持率が激減。7月の参院選で民主党は惨敗、参院での過半数を失いねじれ国会となった。 参院選で党が大敗すると、小沢および小沢系議員は執行部を批判、代表選への小沢の立候補を促す動きが起こる。鳩山由紀夫の支持を取り付けたことを機に、小沢は自身の立候補を決意した。 小沢の出馬決意を受け、選挙後に党が分裂する危険性が高まったため、鳩山や輿石東が菅と小沢の間を取り持ち、小沢の復権を伴った「トロイカ+1体制」[4]の確立を菅が了承するのと引き換えに小沢が出馬を辞退する、などの折衷案を提案した[5]。しかし菅が提案を拒否し、交渉は決裂、代表選で2人が争うこととなった。 党代表選データ日程
立候補者
党中央代表選挙管理委員会
有権者数とルール
推薦人
選挙結果太字は当選者。
この結果、菅直人が小沢一郎に勝利し、再選を果たした[8]。菅の任期は2012年(平成24年)9月末日(30日)まで(党規約11条3項)。さらなる再選は制限されていない。 国会議員票詳細
棄権の2人は西岡武夫参議院議長と横路孝弘衆議院議長と思われる。参院の西岡は小沢の出馬を牽制[9]する一方で投票では棄権することを表明していた[10][9]。衆院の横路は投票する気はあったが、直前の飛行機故障のため投票時に会場に着くことができなかった[11]。 選挙後菅は「挙党一致」を強調していたが、選挙後に成立した菅改造内閣では、小沢グループの閣僚が全員離任し、大方菅支持の議員が就任した。直後に行われた世論調査では内閣支持率が大きく回復し、発足時を上回った。 選挙戦における争点マニフェストの修正前年の総選挙で民主党が掲げたマニフェストは、選挙前から財源の裏づけが疑問視されており、鳩山前政権の末期には公約と財源の板挟みの状況を呈していた。前政権で財務大臣を務めていた菅は現実に即したマニフェストの修正を唱えているが、代表時代にマニフェスト政策に当たった小沢はマニフェストの実現に努力すべきだと主張している。 政治とカネ小沢は自身の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る陸山会事件の刑事訴追について検察審査会の審査を受けている最中であるため、小沢は選挙に出馬するべきではない、との声がある[12]。 その他代表選挙の模様は地上波のテレビで放送されたほか、TBSがUstreamで放送した。接続したユニークユーザーは27万人を数え、アジア地域での最高記録となるなど[13]、選挙への関心の高さが示された。 脚注
外部リンク |
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