日本生命保険
日本生命保険相互会社(にほんせいめいほけん、英語: Nippon Life Insurance Company)は、大阪府大阪市中央区に登記上の本店、東京都千代田区丸の内の日本生命丸の内ビルに東京本部を置く日本の生命保険会社[4][5]。通称は日本生命、略称は日生(ニッセイ、NISSAY[注 1])。保有契約高・保険料収入・総資産で日本最大手の生命保険会社である。 概要1889年に創業した、日本で3番目に古い生命保険会社である。1899年に保有契約高が業界首位となり[6]、現在までこれを保持している[要出典]。会社形態は相互会社であり、株式会社ではない。2010年4月に、それまで相互会社であった第一生命保険が株式会社化したものの、日本生命は株式会社に転換する考えはないと説明している[7]。 2021年3月現在、日本生命の投資先は公社債 (36.1%)、株式 (14.5%)、外国証券 (29.2%)、貸付金 (10.2%)、不動産 (2.3%)などとなっている[8]。 2021年からのスローガンは、「今日と未来を、つなぐ。」。2014年度については創業125周年にちなみ、「あなたの”いまとみらい”に安心を。」も使われている。それ以前は「ずっと支える。もっと役立つ。」、「みらい創造力で、保険は進化する。」(2012年4月 - 2015年3月)、「”大切な人を想う”のいちばん近くで。」(使用時期不明)、「新しい豊かさを提案するNISSAY」(創業100周年時)などが使われていたが、CI導入前の1989年までは「保障から年金まで生活保険の日本生命」が長らく使われた。 経営状態おもな収益源経常収益(株式会社でいう売上高)は、7兆2,936億9,500万円(連結)。内訳は、保険料収入5兆3,371億1,800万円(同)、資産運用収入1兆7,739億5,100万円(同)、その他雑収1,826億2,500万円(同)などである。収益のうちに占める保険料収入の割合は概ね73%である[8]。 健全性指標資産規模![]() 総資産など機関投資家としての日本生命日本生命は日本の民間で、最大の機関投資家である。日本生命のメインバンクは三菱UFJ銀行(旧・三和銀行)であり三和グループの三水会とその後身社長会である水曜会[注 2]には加盟しているが[11][12]、みどり会には未加盟である。)だが、その資本力、規模から実質的には「銀行系に属さない機関投資家」とみなされている。 長年の蓄積から、2014年現在、日本で上場している企業のうち、601社で上位10位までの株主であるとされる(全上場企業3,733社のうち約2割)[13]。 1980年代後半時点では、上場企業1,806社(当時)のうち、69社の筆頭株主、432社で上位5位までの株主、約750社で上位10位までの株主であった[14]。こうしたことから、バブル時代には日本経済新聞から「日本株式会社の静かなる大株主」とあだ名された[14]。なおバブル崩壊以降は、リスク資産の圧縮のため売却を進め、2003年時点では、日本で発行されている株式総数の2.3%、3,000銘柄(うち上場銘柄2,150)を保有していたと報道されている[15]。 筆頭株主となっている企業は、三菱UFJフィナンシャル・グループ、東洋紡、帝人、クボタ、近鉄グループホールディングス、阪急阪神ホールディングス、南海電気鉄道、京浜急行電鉄、京王電鉄、サッポロビール、武田薬品工業、アステラス製薬、第一三共、田辺三菱製薬、髙島屋、TBSホールディングス、テレビ東京ホールディングスなど。非上場企業の主要株主企業にはサントリー、MBSメディアホールディングス、テレビ大阪などがある。 不動産賃貸業(いわゆる貸しビル事業)では、所有延床面積で三菱地所、三井不動産に次ぐ日本3位の規模である。賃貸用不動産残高は1兆705億円、賃貸用ビル保有数は339棟にのぼる[16]。 沿革概要1889年7月に滋賀県彦根で第百三十三国立銀行(後の滋賀銀行)の頭取をしていた弘世助三郎が近畿の財界人、第四十二国立銀行(後の三菱UFJ銀行)頭取・田中市兵衛、川上左七郎、土居通夫、山口吉郎兵衛、岡橋治助、西田永助、竹田忠作、井上保次郎、熊谷辰太郎、難波二郎三郎、草間貞太郎、甲谷権兵衛、泉清助の各氏に呼びかけて、社長に11代目鴻池善右衛門を据え、片岡直温らを取締役にして資本金30万円の有限責任日本生命保険会社として、大阪市に発足させた。 保険料表を当時、主流だったイギリスの保険会社のものを使わずに、日本人の死亡統計から作成したものを採用した。1891年に株式会社化し(社名は日本生命保険株式会社)、相互扶助の精神のもと1898年の第1回大決算において、日本で最初に契約者への利益配当を実施した。第二次世界大戦中に戦時統合として、富士生命保険・愛国生命保険と合併した。 戦後は金融機関再建整備法に基づき、1947年に相互会社(社名は日本生命保険相互会社)として再出発した。高度経済成長期である1963年に東京都千代田区に日生劇場を完成させた。また、1975年には経営が困難となっていた琉球生命保険の全契約の包括移転を行い、事実上の救済合併を行った。川瀬源太郎社長在任時に、1988年2月4日に生命保険会社の総資産部門の世界ランキングでアメリカ合衆国のプルデンシャルを抜いてトップに立つ。すでに新契約高・収入保険料・保有契約高の三部門で世界一になっていたので、これで四部門のすべてを制する「四冠王」に輝き、名実ともに世界第1位の生命保険会社となった。 1990年代以降はアメリカ合衆国や中華人民共和国へと進出を始めた。金融自由化の流れの中で、1996年にニッセイ損害保険を設立し、損害保険業界に進出した。1990年代以降の景気低迷の流れの中で業務提携・経営統合をすすめた。三井海上火災保険・住友海上火災保険と提携、ニッセイ損害保険も同和火災海上保険と合併させニッセイ同和損害保険(後のあいおいニッセイ同和損害保険:MS&ADインシュアランスグループホールディングス傘下)を設立し、解散した同和生命保険の全契約を引き取った(契約の包括移転)。 社章は、1987年までは紋所の一つである“組み合い角”に“生”を配したものだったが、1988年にコーポレートアイデンティティ(CI)を導入し、赤の正菱形に“N”を配した社章(呼称:センチュリークリスタル)[注 3]が制定された。 年表
歴代社長
施設本店 大阪市の本店ビル本館は、江戸時代に大坂の学術において中心的な役割を果たした学問所「懐徳堂」の跡地に位置し(1938年に第一期が完成。1962年に第二期が完成、設計長谷部鋭吉)、東京本部は東京都千代田区丸の内の日本生命丸の内ビル(丸の内オアゾ内)に置く。 本店(大阪)には保険契約管理のための事務を行うお客様サービス部門等の事務系ミドル・バックオフィスを置いている。また、コールセンターや契約管理部門は、一部機能を福岡に移管している。 東京本部 1923年の関東大震災で、日本橋に位置した東京支店は焼失してしまった。このため日生はその跡地に大規模なビルを建設することを決め、周辺の土地も買い増して、地下2階、地上8階、延床面積8800坪に及ぶ東京日本生命館(設計高橋貞太郎)を建設した。同館は1933年竣工。竣工した建物のごく一部を東京支店として使用し、そのほか全館は髙島屋が借り受け、同年3月20日、南伝馬町から東京店(後の日本橋髙島屋S.C.本館)が移転して営業を始めた。なお、東京日本生命館は戦前の日生における本格的な投資用ビルとしては唯一の例であった[24]。 戦後、東京日本生命館は増築され、1952年4月に竣工した。増築面積は3530坪で、増築後の総面積は11410坪となり、増築部分の6階までは従来と同じく高島屋に賃貸し、7・8階は日生の東京総局(後の東京本部)として使用した[25]。創業70周年事業の一環として進めてきた日本生命日比谷ビル(日生劇場)が1963年に有楽町に竣工すると[26]、オフィス部分に東京総局は移転した。 1987年、東宝が日比谷の劇場街を再開発して建設した地上18階・地下4階の東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)が完成すると、4階以上には日生が入り東京本部を置いた。また1989年には、大阪の本店から同ビルに戦略部門である旧企画部を総合企画室として拡大してもってきたほか、広告宣伝部門も東京に移すなど総勢900人にのぼる大異動を行った[27]。 2004年に東京駅丸の内口前にあったJR東日本本社ビル・交通公社ビルヂング・東京中央ビル・丸ノ内ホテル跡等が、三菱地所、日本生命、中央不動産によって再開発され、丸の内オアゾが整備された。 システムセンター 堺市(大阪府)にシステムセンターを、東京都内にバックアップセンターを保有しているが、2011年度に、茨木市(同府)に新システムセンターを設置し、堺市のシステムセンターと、日本の生命保険会社としては初めて、メインシステムの並行稼働をさせた。並行稼働させる理由は、災害時の稼働性の担保であり、コンピュータシステム改変時の稼働を容易にするためである。また、茨木市の新システムセンターには、商品企画の研究開発部門を併設し、保険商品の開発や、保険金不払いの瑕疵を防ぐコンピュータシステムの開発を行う。また、本店被災時のバックアップセンターも設置された[28]。 関連企業→詳細は「公式サイトのグループ会社等のご案内」を参照
不祥事
→詳細は「保険金不払い事件」を参照
スポーツ活動スポーツ活動としては硬式野球部と女子卓球部の活躍が有名であり、他に柔道部には2024年パリオリンピックカナダ代表の出口姉妹(出口ケリーと姉で金メダリストの出口クリスタ)らが在籍。 過去には陸上競技部も存在し、女子5000m元日本記録保持者の八嶋あつみや後に2007年世界選手権大阪大会女子マラソン日本代表となる橋本康子らが在籍していた。 陸上競技部は2002年3月に廃部となるが、2018年4月より男子短距離選手の桐生祥秀と所属選手契約を締結し、桐生の競技活動のサポートや各種イベントの開催などを実施している[37]。 また2020年には女子プロゴルファーの稲見萌寧(都築電気=当時[注 4])とスポンサード契約を締結した[38]。 野球部1929年(昭和4年)創部。都市対抗野球大会では、1947年(昭和24年)の初出場以来、通算58回目の出場(全国最多)、4回優勝。社会人野球日本選手権大会では、3回優勝。2015年(平成27年)には、史上3チーム目となる都市対抗・日本選手権の夏秋連覇を達成した[39]。 →詳細は「日本生命硬式野球部」を参照
日本生命レッドエルフ(女子卓球チーム)1949年(昭和29年)創部。日本卓球リーグ前期優勝13回・後期優勝18回・内閣総理大臣杯17回。全日本卓球選手権大会(団体の部)優勝14回、全日本実業団卓球選手権大会優勝10回、Tリーグ優勝2回の実績を残している[40]。2018年(平成30年)開幕のTリーグに参加し、初代王座に輝いた[41]。全国実業団女子最多の計43回のタイトルを獲得している。8月1日、チーム名・ロゴ・マスコット・所属選手の発表を行い、「日本生命レッドエルフ」と発表された。レッドはチームカラーの赤から、エルフは英語の「妖精」とドイツ語の「11(卓球における11点先取ルールを意味する)」から採られている。 →詳細は「日本生命レッドエルフ」を参照
テレビ番組
イメージキャラクター当初は『タイニー・トゥーンズ』のキャラクターが登場し、その後『スヌーピー』などのピーナッツ作品関連のキャラクターが登場する。2024年度からは同社の契約マスコットキャラクターとして『ちびゴジラ』が登場している。 提供番組現在
現在[いつ?]の提供番組は以下である。なおフジテレビの番組については諸般の事情により、2025年1月18日より当面の間自社CMの出稿を差し止めている。
過去
ほか多数
CM
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在籍した人物特別顧問 その他 脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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