エマーソン・フィッティパルディ
エマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi, ポルトガル語の発音ではエメルソン・フィッチパウヂ、1946年12月12日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身のレーシングドライバー。元F1ドライバー、インディカー(CART)ドライバーである。F1とインディカーの両方でチャンピオンになった。愛称はエモ(Emo)。F1現役時代は大きなもみ上げがトレードマークであった。 プロフィールデビュー![]() サンパウロ出身。モータースポーツジャーナリストでラジオ解説者のウィルソン・フィッティパルディと妻のヨゼファ・ジュゼ・ヴォイチェホフスカの間に、裕福な家庭の次男として生まれる。「エマーソン」という名前は父親が敬愛するアメリカの作家、ラルフ・ワルド・エマーソンにちなんだもの。父がイタリア系であるため、ブラジルとイタリアの二重国籍を持っている[1]。 兄のウィルソンと共にレースを始め、カートやフォーミュラ・Veeの国内チャンピオンを獲得した。当時のライバルにホセ・カルロス・パーチェがいた。 1969年に単身イギリスに渡り、ジム・ラッセル・レーシングスクールを経てフォーミュラ・フォードに参戦。すぐに頭角をあらわし、1970年にはロータスのF2チーム入りを果たした。 F1ロータス時代![]() 1970年のヨーロッパF2選手権は未勝利ながらもコンスタントにポイントを重ね、シリーズ3位。1970年シーズン途中にロータスF1チームのNo.3ドライバーとして加わり、イギリスGPでF1デビューした。 ところが、想定外のアクシデントが大きなチャンスをもたらす事になる。イタリアGP開催地・モンツァでのヨッヘン・リントの事故死と、ジョン・マイルズの放出によってNo.1ドライバーに昇格。大抜擢直後のアメリカGPで72Cに乗り、初優勝を遂げた。キャリア4戦目の快挙であり、ブラジル人ドライバーのF1初優勝でもあった。 ロータスでの最初のフルタイム参戦となった1971年は、ガスタービンエンジン車56Bの失敗や交通事故の後遺症もあって未勝利に終わり、ドライバーランキング6位であった。 ![]() 1972年シーズンはJPSカラーに塗り替えられた72Dの熟成がすすみ、12レース中5勝を獲得。4勝のジャッキー・スチュワート(ティレル)を下してシリーズチャンピオンになった。 25歳273日でのワールドチャンピオンは当時の最年少記録であり、2005年にフェルナンド・アロンソ(24歳58日)が更新するまで、33年間も更新されることのなかった大記録であった。母国のブラジルではこれを記念した記念切手が作られるなど、名実ともにブラジルの英雄となった。 1973年シーズンは初開催の地元ブラジルGPを制し、国民を熱狂させた。序盤戦は3勝と好調だったが、シーズン途中に登場した72Eに悩まされ、スチュワートに次ぐランキング2位に終わった。 この年は、チームメイトとなった親友のロニー・ピーターソンの速さにも対抗しなけらばならなかった。終盤のイタリアGPでは、チャンピオンの可能性を残すフィッティパルディを優勝させるという了解が存在したが、レースではチームオーダーが発動されず、ピーターソンが優勝した[2]。フィッティパルディはチームオーナーのコーリン・チャップマンに不信感を抱き[3]、高額の契約を提示したマクラーレンへの移籍を決意した。 マクラーレン移籍![]() 1974年は強豪のマクラーレンと契約して、M23をドライブした。ブラジルGP連覇をふくめて3勝、2位・3位それぞれ2回ずつという安定した成績を残し、4名によるチャンピオン争いに加わった。 フィッティパルディとクレイ・レガツォーニ(フェラーリ)が同点で最終戦を迎え、このレースでノーポイントに終わったレガツォーニを抑えて2度目のワールドチャンピオンを獲得した。 1975年は2勝したものの、フェラーリのニキ・ラウダについで2位に終わった。スペインGPではコースの安全管理の不備に抗議してひとりボイコットし、レースでは実際に観客死傷事故が発生した。 コパスカー・フィッティパルディ![]() 1976年は兄のウィルソン・フィッティパルディが設立し、自らも運営に関与するコパスカー・フィッティパルディ[4]に移籍した。 ブラジルの国営精糖・精銅会社「コパスカー (Copersucar)」から多額の資金援助を得るなど、国家的英雄としてまさに国を挙げたサポートを受けた参戦であった。また「コパスカー」がスポンサーを降りた1980年からは、ブラジルでも高いシェアを持つ国際ビールブランド「スコール」からのスポンサーも受けた。 移籍後は1978年にブラジルGPで2位を獲得した他、1980年には自らと第2ドライバーのケケ・ロスベルグがそれぞれ1回ずつ3位に入賞するなどところどころで活躍を見せた。しかし、マシンの戦闘力がそれほど高くないため、入賞は多いものの優勝争いに絡むことはなかった。 若くしてチャンピオンに登りつめたものの、F1キャリアの後半をファミリーチームの立ち上げと運営に費やす形となり、3度目のチャンピオン獲得は成らなかった。1980年シーズンをもって引退を表明し、その後は1982年までチームを運営し、チームの撤退後はブラジルで一族の果樹園と自動車アクセサリー事業を営んだ。 1983年春に現役復帰し、IMSA GT選手権にスポット参戦した[5]。 インディカー・ワールドシリーズパトリック時代1984年からはアメリカでCARTの主催するインディカー・ワールドシリーズに参戦した。38歳の最初のシーズンはパトリックレーシングに参加するまで2チームに所属した。パトリック・レーシングには5年間所属し、1985年のミシガン500でインディカー初勝利を獲得。1986年は1勝、1987年と1988年はそれぞれ2勝を挙げるとともに、高い完走率を示した。 1989年には5勝をあげ、すべてのレースで5位以内完走することによって、シリーズチャンピオンを獲得。シリーズ初のアメリカ人以外のチャンピオンであり、F1とインディカーという欧・米のトップカテゴリ両方を制覇したのはマリオ・アンドレッティに続き2人目であった[6]。同年のインディ500では200周のうち158周をリードし、終盤アル・アンサーJr.と激しいトップ争いを繰り広げた。両者接触によりアルアンサーJr.はリタイアしたがエマーソンには大きな損傷はなく、結果的に2位以下に2周差をつけて伝統のイベントを初制覇した。 ペンスキー時代![]() 1990年から強豪チームの1つであるペンスキー・レーシングに移籍。1993年と1994年には2年連続ランキング2位になるなど、その後も安定した好成績を保ち続けた。 1993年には2度目のインディ500の優勝を果たした。その際、勝者の伝統である「ミルク飲み」の前に自身の経営する農園で作られたオレンジジュースを飲んだため批判を受けたばかりかミルク飲みが規定のタイムスケジュールを外れたためそのぶんのスポンサー賞金を受け取り損ねるという珍しい出来事があった。 50歳近くまで一線ドライバーとして活躍したが、1996年のミシガン500出場中にハイスピードオーバルで大クラッシュを喫して首を負傷し、長期欠場に追いやられた。復帰を目指していたが、翌年には自家用機の墜落事故でまた負傷し、現役引退を決意した。 引退後![]() 2003年にレーシングチーム「フィッティパルディ=ディングマン・レーシング」のオーナーとして、CARTに参戦した。2005年にはグランプリマスターズに出場した。また、A1グランプリでブラジルチームを率いて若手ドライバーの育成にも励んだ。 2016年、ブラジルのテレビ局レコールが2700万レアル(約8億1000万円)に上る借金を抱え、60件を超える訴訟を起こされて財産が差し押さえられたと報じた。 人物・エピソードブラジル人ドライバーの先駆者フィッティパルディはF1でもインディカー(CART)でもブラジル人として最初のチャンピオンになった。彼の成功体験を追って、ブラジルから海外に渡って挑戦する者たちが現われ、その中からネルソン・ピケやアイルトン・セナといったブラジル人F1チャンピオンが誕生した。CARTやIRLでもジル・ド・フェラン、クリスチアーノ・ダ・マッタ、トニー・カナーンといったチャンピオンを輩出し、ブラジル人ドライバーは様々なカテゴリで確固たる地位を築いている。 先駆者であり、人格者でもあるフィッティパルディは後輩たちから慕われた。セナが1993年にF1休養を検討した際には、ペンスキーのインディマシンをテストする機会を与えた。またブラジルでは当時ナショナルヒーローであり、1972年のチャンピオン獲得時にはブラジル郵政省から記念切手が発行された。 1983年に2年のブランクを置いて現役復帰した理由に、前夫人との離婚で慰謝料のために金を稼ぐ必要性に迫られたという説もある[5]。 縁戚実兄ウィルソン・フィッティパルディもレーシングドライバーとしてF1まで進出した実績がある。甥のクリスチャン・フィッティパルディ(ウィルソンの息子)もF1とCARTのレギュラードライバーとして1990年代から活躍した。 孫のエンツォ・フィッティパルディが2016年12月25日にフェラーリ・ドライバー・アカデミーへ加入した[9]。エンツォの兄のピエトロ・フィッティパルディは2018年よりスーパーフォーミュラに参戦。2020年にはF1に2戦出場した。 レース戦績F1USAC
CART インディカー・ワールドシリーズインディ500
デイトナ24時間レース
FIA 世界耐久選手権
脚注
関連項目外部リンク
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