稲本潤一
稲本 潤一(いなもと じゅんいち、1979年9月18日 - )は、鹿児島県姶良郡湧水町生まれ、大阪府堺市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。元日本代表。 2002年、2006年、2010年と3大会連続でFIFAワールドカップに出場。2002年大会では2得点を挙げ、日本代表初のベスト16に貢献。 経歴
生後まもなく鹿児島県から大阪府に転居。6歳の時に堺市の青英学園幼稚園でサッカーボールに触れる。堺市立深井西小学校へ入学するも同校のサッカー部は5年生からであったため、稲本の才能を惜しんだ周囲が青英学園SCに参加出来るよう取り計らった。周囲の勧めもあり「プロになる近道」との理由でガンバ大阪ジュニアユースに加入、当時の指導者であった上野山信行によりボランチにコンバート。 ガンバ大阪時代向陽台高等学校に在籍。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームであるガンバ大阪に昇格し、当時最年少の17歳6か月でJリーグ初出場。17歳7か月でJリーグ初得点。 1999年、FIFAワールドユースで準優勝を果たし、シドニーオリンピック・サッカー日本代表、A代表にも招集されてアジアカップやコンフェデレーションズカップに出場。 海外時代2001年、以前Jリーグで監督をしていたアーセン・ベンゲルに見込まれて、イングランドプレミアリーグのアーセナルFCに期限付き移籍。 2002年、日韓W杯代表に選出され、W杯初出場。第1戦のベルギー戦では一時逆転となったゴールを決めて日本のW杯初勝ち点に貢献。第2戦のロシア戦では決勝点を決め、日本のW杯初勝利、決勝トーナメント進出に貢献した。 W杯後、出場機会を求めてプレミアリーグのフラムFCに期限付き移籍した。この年はW杯での活躍などからバロンドールにノミネートされた(日本人としては中田英寿に次ぎ2人目)。UEFAカップ出場権を争うインタートトカップ決勝のボローニャFC戦で、欧州では日本人初のハットトリックを達成。リーグ戦でも当初は活躍したが、怪我もあって徐々に出場機会を失った。1度の期限付き期間延長を経て、2004年のイングランド戦で左足を骨折する重傷を負った事で交渉が決裂し解雇される。その後ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、カーディフ・シティに期限付き移籍する。 2006年6月、ドイツW杯に招集される。第2戦のクロアチア戦の後半に途中出場。第3戦のブラジル戦、稲本からの左サイドへのグラウンダーのパスによるサイドチェンジは玉田圭司のゴールの起点となった。チームは2敗1分でグループリーグ突破はならなかった。2006-07シーズンはトルコ1部リーグのガラタサライSKに移籍。UEFAチャンピオンズリーグ本大会に出場し、1得点を記録する。2007-08シーズンも残留する予定であったが、監督退任に伴い、退団。 2007年5月、同期の高原直泰が当時所属していたドイツのブンデスリーガ、アイントラハト・フランクフルトへ2年契約で移籍。移籍会見翌日にキリンカップのための日本代表合宿に合流し、オシムジャパン初招集となる。2009年6月、フランス1部リーグのスタッド・レンヌに移籍。2009年9月9日の親善試合・ガーナ戦では岡崎慎司の同点ゴールをアシストし、自身6年半ぶりの代表での得点となる決勝点を挙げる活躍を見せた。レンヌでは当初は出番があったが、若手の台頭もあり、出場機会に恵まれずベンチを暖める日が続いた。翌年の南アフリカW杯を視野に国内復帰を模索していたところ、2010年1月12日、レンヌより川崎フロンターレへの完全移籍が発表された。 川崎フロンターレ時代Jリーグ復帰を受け、日本代表の岡田武史監督より2010年の1月25日から行われた代表合宿に追加招集され、また東アジア選手権にも出場した。2010年5月には南アフリカW杯の日本代表メンバーに選出され、自身3度目のW杯出場となった。本大会ではグループリーグでのカメルーン戦とデンマーク戦に途中出場した。 2012年のシーズン途中に風間八宏が監督に就任してから、ボールポゼッションを重視する同監督の戦術もあり、本職のボランチ以外にもセンターバックとして起用された(4月28日J1第8節広島戦[3])。公式戦起用はこの1試合のみで、その後はボランチに戻ったが、2014年より本格的にセンターバックに挑戦することになり[4]、ポジションも正式にDF登録となった。12月4日に契約満了が発表された[5]。 北海道コンサドーレ札幌時代12月20日、北海道コンサドーレ札幌へ完全移籍することが発表された[6]。2015年シーズンはレギュラーで活躍するも無得点でシーズンを終える。 2016年4月23日に行われたセレッソ大阪戦で移籍後初ゴールを挙げた。2014年に川崎時代に挙げてから748日ぶりの得点となった[7]。しかし、6月4日に行われたジェフユナイテッド千葉戦に先発出場した際に右ひざ前十字じん帯断裂で負傷交代。全治8カ月の大怪我となった[8]。 2017年9月23日に行われたアルビレックス新潟戦で476日ぶりの公式戦復帰を果たした[9]。 2018年シーズンは、昨季リーグ11位だったチームが4位でリーグ戦を終えるなどチームが躍進する中でなかなか試合に絡めず、シーズン終了後に契約満了が発表された[10]。 SC相模原時代2019年1月23日、J3・SC相模原に完全移籍することが発表された[11]。6月15日、第12節のガンバ大阪U-23戦で移籍後初ゴールを決めた。この得点でJ3リーグ戦最年長得点記録を39歳8か月28日に更新した[12]。2021年シーズン終了後に契約満了し退団[13]。 南葛SC時代2022年1月18日、関東サッカーリーグ1部・南葛SCへの移籍が発表された[14]。 2023年11月30日、来季からのコーチ兼任を発表[15]。 2024年12月4日、現役引退を発表。「指導者としてA級、S級とライセンスを取得していきたい。最終的には監督になりたいなと思っています。」と意向を表明した[16]。 指導者として2025年より川崎フロンターレ育成部コーチに就任[17]。 エピソード
所属クラブ
個人成績
タイトルクラブ
代表
個人
代表歴
出場大会など
試合数
出場
ゴール
指導歴出演CM
出版物
脚注
関連項目
外部リンク
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