筒美京平
筒美 京平(つつみ きょうへい、本名:渡辺 栄吉(わたなべ えいきち)[1]、1940年〈昭和15年〉5月28日[1] - 2020年〈令和2年〉10月7日)は、日本の作曲家、編曲家。東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身[2]。青山学院大学経済学部卒業[3]。2003年に紫綬褒章を受章[4]。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。既婚。 1960年代後半のグループ・サウンズ、その後は歌謡曲、アイドル歌謡曲、J-POP、アニメ主題歌等の作曲と、非常に幅広いジャンルにわたる多数のヒット曲を世に送り出した、昭和後期から平成期の日本を代表する作曲家[5][6][7][8]。 1971年の『また逢う日まで』、1979年の『魅せられて』で日本レコード大賞を受賞している。日本の作曲家別レコード売り上げ年間1位を10回(1971年から1973年、1975年、1976年、1981年から1983年、1985年、1987年)記録。また作曲作品が、1960・1970・1980・1990・2000年代と、5年代連続でチャート1位を獲得。1960・1970・1980・1990・2000・2010年代と、6年代連続でTOP10にチャートインしている。 来歴幼稚園からピアノを始める[2]。青山学院初等部・青山学院中等部・高等部、青山学院大学経済学部卒業[2]。大学在学時はジャズに打ち込み、大野雄二とも面識があった[2]。 大学卒業後の1963年に日本グラモフォン(後のポリドールK.K.→ポリグラムK.K.→ユニバーサルミュージックK.K.→ユニバーサルミュージックLLC)に入社[1]。洋楽担当ディレクターとして勤務する傍ら、大学の先輩である作詞家の橋本淳に勧められ、すぎやまこういちに師事し作編曲を学ぶ[1][2]。 1966年8月、「黄色いレモン」(藤浩一ほか、競作)で作曲家デビュー[1]。1967年から専業作家となる。ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味から「鼓響平」を考えていたが、「真ん中で折った時に左右対称の名前は縁起がいい」という意見があり、文字を左右対称にするために「筒美京平」とした[9]。 1968年12月に発売されたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が、筒美の作曲では自身初のオリコン週間1位を獲得。自身が作曲・編曲で日本レコード大賞を受賞した曲は、1971年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」第13回日本レコード大賞と、1979年、ジュディ・オングの「魅せられて」第21回日本レコード大賞である。 1970年代の吉田拓郎ら、シンガー・ソングライターの出現には脅威を感じたが[7][8][10][11]、物ともせず、ヒット曲を世に出した[7]。 1997年に筒美作品で構成されたCD-BOX『筒美京平:HITSTORY』が発売された。自身が手がけた楽曲では、「また逢う日まで」「さらば恋人」「木綿のハンカチーフ」が気に入っていることを、2002年のインタビューで語っている[2]。2006年4月5日に筒美作品で構成されたCD-BOX『THE HIT MAKER -筒美京平の世界-』が、2007年7月11日に『the popular music 〜筒美京平トリビュート〜』が発売された。作曲家のトリビュート・アルバムとしては、日本初となる。 2013年には声優・竹達彩奈のシングル「時空ツアーズ」や、2015年には野口五郎のシングル「再会タイムマシン」、2016年には飯田里穂のシングル「青い炎シンドローム」を手がけるなど、作曲活動は晩年も盛んだった。 2020年10月7日、誤嚥性肺炎のため死去。80歳没。晩年はパーキンソン病を患い[12]、自宅で病気療養していたという。葬儀は本人の希望により近親者のみにより執り行われた[13]。 訃報は12日に、筒美の音楽出版事務所の代行を行う(TBSホールディングスグループの音楽出版社の)日音が発表。メディアで伝えられるとネット上では大きな反応があり、スマホなどでの週間検索数は154万722回で、17日放送のTBS系『新・情報7DAYS ニュースキャスター』内、「週間ニュースワードランキング」で2位となった[14]。またNHK・民放の各テレビ局でも長時間にわたり報道。朝のワイドショーとニュース番組での放送時間を集計した「週間TVニュース放送時間ランキング(芸能)」では1位に[15]。『NHKスペシャル』(NHK総合)や『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)などの番組でも追悼特集が組まれた。ラジオ局では訃報が伝えられてから筒美作品のオンエアが急増。10月21日発表の週間ラジオ・オンエアチャートでは、「また逢う日まで」(24位)、「強い気持ち・強い愛」(25位)、「木綿のハンカチーフ」(38位)など15曲が、圏外からTOP200入りした[16]。 2021年4月17日・18日、『〜筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト〜 ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート』が東京国際フォーラム(ホールA)にて開催された。全編、筒美が手掛けたヒットナンバーで構成され、29組の歌手・アーティストが歌い上げた。この日のために日本を代表する実力派ミュージシャンによって結成されたバンド「船山基紀とザ・ヒット・ソング・メーカーズ」が演奏を担い、指揮と音楽監督を船山基紀が務めた[17][18]。なお、本コンサートの模様は、2021年10月3日にWOWOWライブで放送、及び、WOWOWオンデマンドで同時配信された[19]。 人物メディア匿名性が強い作曲家であり、マスメディアに登場することはあまりなく、プロの職人として裏方に徹するというスタンスを貫いた[7]。また性格的にもあまり人前に出ることを好まず、テレビ番組への出演も滅多になかった。ただし、新人・若手時代はどうしても断りきれなかったため、数回テレビに出演している。レコード大賞の作曲賞が決まった際は、TBSの強い要望で、半ば強引に帝国劇場へ連れ出されたこともあった[20]。 甘い生活が第16回日本レコード大賞・作曲賞を受賞した時は「じゃあ五郎ちゃんが歌うんだったら僕が指揮するよ」と言って本番で指揮したという。 1997年12月に作曲家デビュー30周年を記念して『HITSTORY 筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967 - 97』が発売。さらには翌98年にレコード会社5社共同企画によるコンピレーションシリーズ『筒美京平ウルトラ・ベスト・トラックス』が発売。これを機会にテレビやラジオは筒美京平作品の特集を放送。この頃から新聞や雑誌の取材も少しではあるが受けるようになる。 永らくテレビ出演を敬遠してきたが、2005年、BSフジの音楽ドキュメンタリー番組 『HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜』で数十年ぶりのテレビ出演をした。番組は日本の大衆音楽史に大きく貢献した筒美の歩みの全体像が理解できる優れたエンターテインメント作品であると評価され、その年の日本民間放送連盟賞・テレビエンターテインメント番組部門の最優秀賞を受賞する[21]。2011年5月にはNHK BSプレミアムの『希代のヒットメーカー 作曲家 筒美京平』に出演した。また、この番組でのコメント部分のVTR一部が2017年9月のNHK「うたコン」筒美京平特集の中で使用された。 ゲーム関係で曲を提供したケースは極めて少なく、没後までに、公式にクレジットされているものでは『いただきストリート2 〜ネオンサインはバラ色に〜』『ゆみみみっくす』がある。 主な記録シングル売上TOP10
2019年現在 年代別シングル売上TOP3
2020年10月12日付現在 作曲家総売上作曲作品の総売上枚数[注釈 1]は7,560.2万枚(オリコン)で、作曲家歴代1位である[22]。別名義での作曲作品の売上枚数を加算すると7,600万枚を超える[注釈 2]。オリコンが集計を開始した1968年から約50年にわたり、ほとんどの年で作曲作品がチャートインしており(作曲作品リスト参照)、ヒットチャートランクインは500曲以上、そのうちチャート1位獲得は39曲、TOP3以内が約100曲、TOP10入りした作品は200曲を超えている[23]。日本音楽界で最も多くのヒット曲を生み出した作曲家である。
2020年10月12日付現在 編曲家総売上編曲作品の総売上枚数[注釈 1]は3,747.1万枚(オリコン)で、編曲家歴代4位である[22]。ほとんどが自作曲作品の編曲だが、野口五郎の「私鉄沿線」など他者作品の編曲も手掛けている。売上枚数の大部分は1960年代、1970年代に記録したもので、1980年代以降は萩田光雄、船山基紀、鷺巣詩郎、大村雅朗、大谷和夫、武部聡志といった当時の中堅・若手アレンジャーに編曲を依頼したため[25]、自らの編曲は一部の作品のみとなっている(作曲作品リスト参照)。
2020年10月12日付現在 作曲家年間売上1968年から1989年まで、22年連続で作曲家年間売上TOP10にランクイン。最も売上枚数が多かった年は1972年で約650万枚の売上を記録した[26]。
日本レコード大賞 作曲賞日本レコード大賞で、大賞同様に第1回(1959年)に制定され50年以上の歴史を持つ作曲賞。筒美は過去5回受賞しており、これは全作曲家でトップの記録である。 NHK紅白歌合戦 登場曲数第1回(1951年)- 第60回(2009年)NHK紅白歌合戦で歌われた楽曲は延べ2900曲。その中で筒美京平作品は全作曲家でトップの69曲歌唱される[27]。内訳は紅組が42曲、白組が27曲。初登場曲は、1967年放送の『第18回NHK紅白歌合戦』で歌われた、弘田三枝子の「渚のうわさ」。最も作品が多かった年は1972年(第23回NHK紅白歌合戦)で、紅白合わせて7曲が歌われた[27]。なお、現在は弦哲也に次いで2位となっている(2010年12月31日現在)。 受賞歴・受賞作品作曲賞
日本レコード大賞
※作曲賞以外の各賞
※作家個人に贈呈される賞
各局音楽賞※作曲賞以外の各賞 日本歌謡大賞(TBSを除く民放局)
日本テレビ音楽祭(日本テレビ)
FNS歌謡祭(フジテレビ)
メガロポリス歌謡祭(テレビ東京)
※年間での受賞作品
日本有線大賞 (TBS)
東京音楽祭・世界大会(TBS)
東京音楽祭・国内大会(TBS)
新宿音楽祭(文化放送)
銀座音楽祭(ニッポン放送)
横浜音楽祭(ラジオ日本)
※新人賞関連
地方局主催・制作の音楽祭受賞作品は省略。 コンビを組んだ作詞家と作品数最も多くコンビを組んだ作詞家は、学生時代からの盟友で初期のゴールデンコンビの相手である橋本淳。コンビでの作品数はシングルやアルバム曲などトータルで550曲を超える。第2位は1980年代以降のゴールデンコンビの相手、松本隆で作品数は約380曲。第3位が阿久悠で約120曲となっている[28]。
作曲作品リスト#1960年代 - #1970年代 - #1980年代 - #1990年代 - #2000年代 - #2010年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
その他
あ行あ〜お
か行か〜こ
さ行さ〜そ
た行た〜と
な行な〜の は行は〜ほ
ま・や・ら・わ行ま〜わ
アニメソング・テーマ曲ほかアニメソング・テーマ曲ほか
ソロ・ワークス(「Dr.ドラゴン」名義)
プロデュース
出演
特集番組
評伝関連項目
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |
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