こおろぎさとみ
こおろぎ さとみ(1962年11月14日[3][12][注釈 1] - )は、日本の女性声優、ナレーター[7]。東京都三鷹市出身[4]。ぷろだくしょんバオバブ所属[8]。元夫は声優の中原茂[14]。 代表作は『クレヨンしんちゃん』(野原ひまわり)、『少年アシベ』(ゴマちゃん)、『ポケットモンスターシリーズ』(ミュウ、ピチュー、トゲピー)など[5][7]。 経歴生い立ち小さい頃からごっこ遊びが好きで、風呂敷1枚で「お姫様や魔法使いに変身!」という感じでなりきり遊んでいた[15]。当時の三鷹市は武蔵野の雰囲気が残っており、駅から離れたところに桑畑などがあったことから、林や森の中を走り回っていた[4]。子供の頃からアニメは好きだったといい、夏休みの午前中に連続してアニメを放送する「夏休みアニメ祭り」のような番組はよく見ていたという[15]。 高校生の時に職業としての声優を認識した[15]。それ以前も言葉としての声優があることは知っていたが、高校生になるまで気にしてはいなかったという[15]。 声に特徴があり、昔から「変った声」と言われており、周囲からは「声優になったらいいかも」と冗談まじりに薦められていたが、「声優という仕事もあるんだ」という感じで真剣には受け止めていなかったという[15]。 高校時代になりたい職業は童話作家、幼稚園教諭、声優の三つであり、童話作家は食べていけないと思い、声優は芸能界なため、「なれるわけがない」と当時は断念しており、幼稚園教諭を選択した[16][17]。 幼稚園教諭・養成所時代高校卒業後、女子聖学院短期大学[18]幼児教育科に進学して幼稚園教諭になる[15]。 楽しいことはたくさんあったが、絵本や紙芝居の読み聞かせなどは特に好きで、色々な役を一人で声色を変えて聞かせていた[15]。アニメも相変わらず好きだったため、アニメの話を園児たちとしたりもしていた[15]。幼稚園の教諭たちもアニメ好きな人物が多く、よく話をしていた[15]。 そんなアニメ好きな教諭同士で、当時映画で見た『アリオン』の影響を受け、高校生の頃に蓋をしていた気持ちに火が付き、「こんなに素敵なことを自分もしてみたい」、「私もこれをやってみたい」と声優を志すようになる[15][17][11]。幼稚園の教諭の仕事も楽しくやりがいがあったことから、それまでは声優になろうとは具体的には何も考えていなかったが、『アリオン』を観た後は声優になるための行動を開始し、アニメ情報誌を買ってきて読むようにもなった[15]。 両親、特に父は反対しており、養成所の費用は全て自分で捻出していた[17]。そのために郵便局、レストラン、OL、社長秘書などのアルバイトを多数掛け持ちしていた[17]。住むところだけはどうにもならなかったため、そのまま実家に住んでいたが、栄養失調や過労で倒れたりしたこともあった[17]。1回しかない人生だったことから、「ここは泣いてもらおう」、「声優になりたいという自分の人生を突き進むことで、家族の信頼感など、失くしたものが多過ぎる」と思っていたが、家の中では反対する父とこおろぎの間で板ばさみの母の姿を見ていたため、大変であった[17]。当時のこおろぎはまだ若かったため、何だかんだ言って両親は協力していてくれるということが分らず、「認めてもらえないことが辛い」という思いが強かったが、2008年時点では感謝しており、「ようやく愛されていたんだなぁ」と実感できるようになったという[17]。 その後、アニメ情報誌のページの端にある帯広告で見つけたアートアカデミーに電話をして受験し、同アカデミーに通う[15][17]。その養成所を選んだ理由については、「一番最初に目についたから」と語り、「どこにしようか」などはあまり考えていなかった[17]。通いだしてすぐ仲間が出来たため、通えなかった火曜と土曜の2回分の内容は皆に聞いており、「絶対声優になりたい」と思っていたことから「週1回の授業で全部習得してやる!!」という意気込みで臨んでいた[17]。 幼稚園教諭は4年勤めたが[6]、最後の1年のみ、養成所と幼稚園教諭を両方掛け持ちで通っていた[15]。当時は「アニメの声をするのかな」と思っていたところ、発声や体作りなどの基礎から全て行い、「こんなこともしなきゃいけないんだな」と感じたが、更に朗読やラジオドラマ、舞台演劇と想像もしていないことだらけだっため、毎回戸惑いながらレッスンしていた[17]。幼稚園の教諭を4年してからのチャレンジだったことから、年齢的にもスタートが早いとは言えず、不安はたくさんあり、こおろぎ以外の人物は何かしらの演技経験のある人物ばかりだったため、経験の全くないこおろぎは劣等生だった[17]。 アートアカデミーに通いだしてから場所が変ったり、経営の面でも二転三転があり、最終的には講師でもあった山田太平のところで指導を受けており、「山田がいなければマイクの前に立つことはなかった」と語る[17][19]。こおろぎはずっと劣等生だったため、「自分が声優になれる」と思っておらず、「せめて1回だけでもテロップに自分の名前が載れば本望」と思っていた[19]。 こおろぎの特徴的な声はハンディキャップであり、外国映画をやってもアニメにしか聞こえないという具合であり、浮いてしまっている自分を感じており、当時は「普通の声になりたい」と心底思っていた[19]。発声も滑舌も苦手で、あまり上手くならなかったが、それでも「自分なりに頑張った」と語る[19]。 劣等感を持ちながらレッスンを続けていたことについては、下手だったものの楽しくはあり、自分が下手なのを知っていたため、「失敗しても当たり前じゃないか」と思っており、緊張もして「嫌だなぁ」と思ったりもしていたが、元々幼稚園の教諭から転向した経緯があるため「下手で当たり前、皆より遅れていて当然だ」と思うようにしていた[19]。仲間や山田の励ましもあり、特に山田からは「絶対大丈夫だから。絶対いいものを持っているから、いつか花が咲く、開花するから。俺にはわかるよ」と言い続けてくれたのが、とても心に残っていた[19]。 レッスン場が山田のところに移ってからは、内弟子のように山田の事務所兼自宅に入り浸み、山田が食事を作ってくれたりと色々お世話になっていた[19]。その縁もあり山田のことを「太平お父さん」と呼ぶほど信頼しており、毎日練習は欠かさず取り込んでいた[19]。 最後の最後まで山田に面倒を見てもらい、力添えがあったことから、山田に「絶対になんとかしてやる」と紹介されてバオバブ学園(現:ビジュアル・スペース俳優養成所)5期生[20]として入所[17][19]。同園時代は、急に仕事を受けることもあったため、アルバイトを急遽キャンセルして仕事優先にしており、そのためアルバイトはクビになることが多かったという[17]。 ある日突然、事務所から来ていた便りで、所属が決まった生徒の発表でこおろぎの名前がぷろだくしょんバオバブの名簿に掲載されていたため、「所属になったんだな」とぷろだくしょんバオバブへの所属が決まった[19]。同期生では3名所属になったという[19]。 劣等生で演技力があったとはとても思えなかったが、「先生に喰らいついてでも何か盗んでやろう」という気持ちは持っていた[19]。「そういう自分の姿を山田は見ていたのかもしれない」「『この子はそんなに声優になりたのか』と思いを汲んでくれたのかもしれない」と語っている[19]。 キャリアデビュー作は、1988年放送のテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』におけるこひつじ役[9][10][5][11]。洋画デビューは『ビッグ』[21]。アニメの初めて準レギュラーは『ミラクルジャイアンツ童夢くん』の麻生かおり役[22]。アニメの初レギュラーは『ハーイあっこです』のハナコ役となる[22]。 マイクに入ることだけでも難しく、先輩が襟首つまみ、無理やりマイク前に引っ張ってくれたこともあった[9]。緊張で声が裏返ってしまい、収録できないため、「もういい」とディレクターに怒られたこともあり、泣いて帰ったことは、何度もあったという[9]。 声優活動当初は仕事、現場が怖く、不安のほうがはるかに大きかった[9]。現場に行っていたところ、話してくれた人物の側に座り、緊張しすぎないようにしていた[9]。名前が面白いということで、声をかけてくれた人物もいたため、助かったという[9]。 『ハーイあっこです』のハナコは当初、赤ん坊だったため、いろんな気持ちをすべて「オギャーオギャー」で表現しなければならないため、坂本千夏の赤ん坊の演技を盗もうと努力したという[16]。『少年アシベ』のゴマちゃんのオーディションでは「キュー」でいろんなことを表現しろと言われたとき、ハナコが思い浮かび、「オギャー」を「キュー」にすればいいかなとチャレンジした結果、役をもらったという[16]。 声の仕事は養成所の2年目で『キャッ党忍伝てやんでえ』に出演[19]。結局は、仕事と養成所との両立が難しくなり、最後の3ヶ月は養成所を辞めて、仕事に専念させてくれることになったという[19]。 1年後の『キャッ党忍伝てやんでえ』の終わり頃、緊張がほぐれてきて、少しずつだが、アフレコを楽しめるようになってきた[9]。ディレクターが「最初と最後で一番変化が著しかったのはこおろぎだ」と打ち上げで言ったことがうれしく自信を持つことができたという[9]。 新人の頃はオーディションに落ちるたびに落ち込んでいたが、事務所の大先輩に「オーディションなんて60本受けて1本受かればいいんだよ」と言われ、楽に考えられるようになった[9]。事務所のマネージャーだったたてかべ和也からも「受かろうと思っているから駄目なんだよ。楽しんで来い」と言われたという[9]。 何よりも思い出深い作品は初めてテレビアニメの主役を演じた『ママは小学4年生』で、収録のある月曜日は他の仕事を入れないようにしていた。また、最終回の収録では、最後までなつみ役を務められたことがうれしくて泣いてしまったという[22]。 声帯疲労からの回復2002年、声帯疲労で1年間ほど声が出なくなる[23][24]。その時はゲームの仕事での収録中であったが、いきなり声が出なくなり、それ以降の収録ができなくなり、事務所にその報告をする電話すらできないような状態だった[24]。色々な高名な医師に診てもらったが、「治療には長い時間がかかることと、今までのキャラクターは無理なので路線変更を考えてください」と宣告され、「声が出ないのではなく、声が出せないほど体が疲れているんですよ」と言われ愕然としていた[24]。声帯が全く震えず、声帯の周りの筋肉が動かず、喋ろうと意識をしてしばらくしてから音が出る感じだった[24]。しかも声とは違う音が出てしまい、ショックで1ヵ月ぐらいは毎日家に帰って泣いていた[24]。一度は廃業を考えていたが、その後は回復して再び活躍している[24]。当時はレギュラーとして出演していた持ち役は、大半は代役で対応していたが、『クレヨンしんちゃん』の野原ひまわりだけは瞬間芸で演じていた[24]。しかし、声優を辞めたくないという気持ちはあり、今までの自分の声をなんとしてでも取り戻したかったため、「私も頑張りますので、先生なんとかしてください」とお願いして、長く地道なリハビリを始める[24]。事務所には1日1本にしたり、長尺の仕事など出演し通しのものは避けてもらうようにお願いしていた[24]。タバコの煙などはNG、人の多い電車の中も空気が悪いためNGであり、その後は夏でも車中では常にマスクをするようにしており、自分の身体のメンテナンスのために整体や鍼などにも通うようになったという[24]。 ここまで頑張ってこれたのは友人の励ましで、皆が手を握って「エネルギーを送るから」と応援してくれたことが1番心に響き、身体はすぐには治らないが、精神的に立ち直らせてもらったという[25]。落ち込んでいる時は、マネージャーの言葉も耳に入らず、「気にしないで、と言われてもそんなことができるわけない」とマネージャーの精一杯の優しさにもあたってしまったりしたこともあった[25]。あの1年もの間、色々な心の葛藤があったが、皆が励まし続けてくれたおかげで2008年時点のこおろぎがおり、このことは絶対に忘れられないという[25]。仕事も事務所がとても気を遣っており、負担のかからないスケジュールを組んでもらったため、なるべく声に負担にならない形で仕事を続けていた[25]。いい人物たちに巡り会い囲まれていたから声優としての活動を続けられているのだといい、大事な時期に必ず誰かが自分のことを見ており助けてくれたこと、そんな出会いができたことが自身の財産だと語る[25]。 人物・エピソード「こおろぎ(興梠)」という苗字は両親の出身地である宮崎県にみられる、日本神話に由来するものである[26]。他の地域の人には読むことが困難なため、芸名をひらがなにした。本名の正確な仮名遣いは「こうろぎ」である。山田太平に「カッコイイ芸名をつけたい」と話をしていたが、「絶対本名のままがいい」と述べていたという[9]。 幼い頃、吃音症であり、自分の名前の「さとみ」も言えず、「…みぃ」と発声するほどだった。しかし、小学生の頃歌が好きで、姉[6]のピアノの伴奏で不思議とどもらずに歌えたことで克服。こおろぎも「自信になったんでしょうね」と述べる。またこの時についた愛称「みぃ」も今は気に入っているとのこと[11]。ピアノは4歳の頃から中学2年生まで習っていた[15]。前述の通り、姉がピアノをしていたため一緒に習い始め、2008年のインタビューでは、ピアノを習っていたことがとても役立っていると語る[15]。仕事で歌や譜面を渡されることもあるため、習わせてくれた母にとても感謝しているという[15]。譜面を読まないと音楽がわからず、頭の中にイメージする鍵盤があり、叩いて音を掴み、昔は聞いた音をそのまま譜面に落とせたが、2008年当時は暗号だらけ、自分にしかわからない譜面になった[15]。姉はこおろぎが声優になる前も応援しており、昔からこおろぎの心強い味方だという[17]。 中学時代はテニス部に所属していたが、夕方5時くらいから放送されていたテレビアニメ『海のトリトン』の再放送の方が楽しくなってしまったことから1年生の途中でテニス部は退部させられてしまったという[15]。 高校時代はサザンオールスターズのコピーをするバンドのボーカルの男子が好きだったため[16]、側にいるためにギターを購入してフォーク部に所属し、バンド活動をしていた[6][15]。その男子とはギターを教えてもらい、何とかしたいと思ったが実らずに終わったという[16]。前述の通りピアノを習っていたため、キーボードを弾いて歌を歌ったりしていた[15]。ユーミン世代だったことから、譜面を買ってきて弾き語りなどもよくしていたという[15]。 学生時代、同じく声優の辻谷耕史と同じ千葉県立我孫子高等学校[16][27]でクラスが一緒だった[28][29]。また、阪神タイガース監督の和田豊とも同じ学校の同級生だった[29]。 特色かわいらしくてハスキーな声を持つ[2]。こおろぎによればフォークソング部に入っていたころ、ハスキーな声に憧れ、わざと喉をつぶす行為に出た結果、失敗してできた声だという[30]。 数々のテレビアニメ、外画吹き替え、ナレーション、ゲームなどで活躍[7]。 赤ちゃん、動物役の演技に定評があり、数多くの役柄を演じる[7]。 演じる役は少女役が多いが、『少年アシベ』のゴマフアザラシ、『クレヨンしんちゃん』の野原ひまわり、『YAWARA!』の花園富薫子役など赤ちゃん、動物役などが目立っており、「台詞を話せてもらえない」役を演じることが多い[10]。 赤ちゃん役に関しては、『ハーイあっこです』の時に尊敬する坂本千夏がいたため、マネをするところから始めたが、坂本とは、声は似ていないため、声質はマネしようがなく、坂本の赤ちゃん役を演じる時の子供の生理をマネしていたという[9]。 色々経験したりしていくうちに、「赤ちゃん役が大好きと赤ちゃん役なら怖くないぞ」と言えるようになったという[9]。電車の中で赤ちゃんを見ていたところすかさず観察したりもしていた[9]。この頃から「声が少し特徴的だ」ということで、人間以外の役でもとりあげてもらうようになったという[9]。 オーディションの際は「受かろう」とは思わず、「『この役を私ならこう演じます』ぐらいな気持ちでやれたらいいのではないか」と考えているという[9]。オーディションでは、原稿を読んでパッと浮かぶインスピレーションで受けることが多い[9]。 現場では、共演者から必ず何か盗むようにしているという[24]。 『少年アシベ』のゴマちゃん役では「キュー、キュー」とひたすら鳴く役で感情や言葉を演じ分けたが、その苦しさのあまり、喉から血を出したことがある[31]。 趣味・嗜好特技は子供の声で電話セールスを断ること[32]、ピアノ、ギター、スキー、シュノーケリング[8]。趣味は庭いじり、音楽を聴く、お散歩、読書[8]。 資格は普通自動車免許、幼稚園教諭2級免許、鼓笛ライセンス5級[8]。 人生のモットーは「自分らしく」[6]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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