田中理恵 (声優)
田中 理恵(たなか りえ、1979年1月3日[8][11] - )は、日本の女性声優、歌手。北海道札幌市南区出身[4]。オフィスアネモネ所属[5]。 来歴生い立ち出生時の体重は2760gであったという[12]。 子供の時は生傷の耐えないおてんばで、勉強より外で遊ぶのが好きだった子供だった[13][14]。小学校時代、学校から帰ってくると玄関にランドセルをそのままポイと置いてすぐに外に遊びに行くような、男の子のような子供だった[15]。親には「野生児」と言われていたという[15]。冬は室内で過ごすことはなく、冬でも学校の屋外授業が結構あり、特に楽しかったのは毎週土曜のスキーの授業で「1日勉強しないでいいからラッキー!」と感じていた[15]。冬は他にも野鳥観察があり、ひな鳥が元気に成長しているかを観察して日記に書いたりしていた[15]。外で自然に触れる課外授業がたくさんあり、春になれば学校の裏山に教師と山菜を観に行って写生をしたり、田植えの授業もあったという[15]。 幼い頃におばさんに歌を教えてもらっており、『氷雨』も歌っていたという[14]。小さい頃なりたかった職業は、スターやスチュワーデスであった[13]。 小学生の時、図書委員会に所属していた。人に読み聞かせをするのが好きで、担任の先生が教室にやってくる前の朝の時間に、低学年の児童を相手に紙芝居を行っていた。また図書委員の活動の1つで視聴覚室を使用して紙芝居大会が行われた際、紙芝居を見た児童が喜び、先生に褒められて非常に嬉しかったことが声優を志す遠因となった[16]。 歌、絵を描くことも好きで、デッサン教室にも通っていた[15]。その時は大人の中に1人だけ小学生が混じって木炭を握ってひたすら描き続ける、といった感じであった[15]。近所に芸術家が何人か住んでいたため、そういった付き合いの中で絵を描くことも自然な流れだった[15]。しかし、当時の田中にはデッサンは難しく、林檎ひとつ上手く描けなかった[15]。特に空間を描くのは難しく、紙が真っ黒になってしまった[15] その教室では、毎回皆の作品を並べて先生が1人ずつ評価をしてくれたが、最年少だった田中は常に最後で、「子どもと言えども容赦しない」という感じで、いつもかなり手厳しい評価であった[15]。しかし嫌になることはなく、きちんと評価してくれることが楽しかったという[15][17]。習い事は他にも英会話教室、小学校時代から中学時代まで水泳[2]、書道、バレエなどをしており[13]、全て自分が好きで「やりたい」と言って始めたものばかりであった[15]。英会話については、少し母の意向が強かったという[15]。 中学時代は美術部に所属し、油絵を描いていた[2][17]。とにかく油絵は好きで、油絵の絵の具の香りも好きであったという[17]。ある放課後、絵を描いていたところサッカー部の男子が蹴ったボールが窓から飛び込んで来てそれが田中に当たった[17]。驚いて反射的に立ち上がった拍子に絵が自分の側に倒れて来て、絵の具がべったりしていた[17]。ボールを蹴った男子はかなり謝られていたが、制服についた絵の具が落ちず親には怒られるなど大変な思いをしたため、このことは凄い思い出として挙げている[17]。 中学に進学後、あまり外で遊ばなくなり、その頃からゲームが好きになったという[17]。ちょうどいのまたむつみの絵が好きで、本屋でいのまたがジャケットイラストを担当したドラマCD『CDシアター ドラゴンクエスト』を購入して聴いたこと、学生時代に元々芝居も好きであり、演劇部にも所属していたことが声優を志す直接的なきっかけとなった[9][13][17]。高校2年生の時に放送されていた人気アニメを色々見たことで、職業としての声優に憧れを持つ[10]。進路を決めなくてはいけない時期でもあったため、職業としての声優について色々調べ始めていたという[10]。 高校時代は4つくらい部活に所属していた[2]。高校時代に漫画研究部に所属してまんが甲子園に出場したことがあったが[17]、その場で審査員だった同郷の島本和彦に「声優になりたい」と直訴したという[18]。部活はかけもちがOKだったため、軽音楽部にも所属していた[17]。その頃は「表現すること」に関して、やりたいことが多数あり、学園祭でバンドを組み、リンドバーグのコピーなどを演奏していた[17]。バンドではヴォーカルであり、ドラム、ギター、ベースまで全員女の子だけというガールズバンドで楽しかったという[17]。母はピアノを習わせたかったようであったが、楽器演奏には興味が持てなかったという[17]。高校時代、専門学校のアフレコ体験入学に何回か行き、演技を初めて経験[17]。代々木アニメーション学院札幌校であったが、そこで感じていたことは「演技は30分や1時間で学べるようなものではない」ということであった[17]。その時に台詞ひとつ言うだけでも画に当てるのが精一杯であったという[17]。担任の教師に進路を聞かれて、「声優になりたいんです」と答えていたが、当時は職業としての声優が世間的に認知されていなかったこともあり、教師には「スーパーマーケットの西友に勤めるのでしょうか?」と言われてしまったという[10]。 高校卒業直前に、大学進学を断念して、声優になるために上京することを決心[12]。その時にひとり娘ということもあり、両親を説得するのに大変であったという[12]。両親は、「その職業に就いて、ちゃんとお金を稼いでいけるか?」と声優の道に進むことに猛反対しており、それまで家系で芸能関係に進んだ人物はおらず、高校卒業後は地元の大学に進学するものと親は信じていたことから、勘当寸前の状態だったという[17][10]。それで、「専門学校の授業料も自分で稼がないといけないなあ」と思い、玩具店で商品ラッピングのアルバイトをしていた[17]。両親は、最後には「そこまで言うのなら応援しましょう」と言ってくれて、「声優を目指すなら東京に行かないと仕事の機会がない」と思ったことから上京したという[17]。しかし「1年間学んで、何の仕事もなかったら帰ってきなさい」、「1年間だけ猶予をあげるから、頑張ってみなさい」とも言われたという[10][17]。 キャリア1997年、高校卒業後に上京、代々木アニメーション学院声優科に入学する[12][19]。読み聞かせや子供の世話が非常に好きだったため、保育士になることも大きな夢で、進学して保育士になるか、それとも声優になるかで迷っていたが、「ひとつの世界に止まらず、より大きな世界で子供たちに声を届けたい」との思いから後者を選択した[16]。専門学校時代は寮の近くの焼き鳥屋、駅地下のブティックの2ヶ所でアルバイトをしていた[20]。いつオーディションが入るかわからず、オーディションを優先したかったため週1回ずつぐらいのアルバイトだったが、貯めたお金でオーディションに着ていく洋服を買ったりしていた[20]。その後はゲームも買っており、2011年時点では「好きなゲームに自分の声をアテル仕事ができて本当に幸せだ」と思っている[20]。自分でゲームをしていると、仕事でも「ああ、ここでこの台詞が入るんだな」と感覚的にわかり、「全くプレイしない人よりは、ずっとやりやすいんじゃないか」と思っている[20]。既に出演しているゲームの続編の仕事をもらったりすると、前のゲームを実際にしてシステムもわかっていることから、もうなんとなくイメージでき、「出させていただいて栄光です!」と思いながら仕事している[20]。在学中にメディアワークス&サイトロンのヴォーカルオーディションでグランプリを獲得[19]。『悠久幻想曲 2nd Album』にてPS版オープニングテーマ「永遠の親友」を歌い、芸能界デビューとなった[10]。このため、歌手としてのデビューの方が声優デビューより早い[20]。その時に「主題歌?私が本当に歌っていいんですか?」という感じであったという[20]。しかし両親はいつもどおりの反応であったという[20]。また、同時期に『宮村優子の直球で行こう!』などのラジオ番組のアシスタントをしたり[12][13]、劇場版アニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』に端役で参加している[9][10]。在学中からの実績を残せたため、このまま声優の仕事を続けていくことを親に認めてもらえたという[10]。事務所に所属してのデビューは1999年、『デュアル!ぱられルンルン物語』におけるヒロインの1人・真田三月役[18][19][21]。初めの頃のアフレコで野沢雅子と緒方賢一に助けてもらっており、丁寧に演技の指導をしてくれてとても感謝しているという[18]。 マネジメント上の都合で長年所属していたドラマチック・デパートメント[1]から、2008年4月1日付けでリトリートへ移籍。2019年3月1日よりオフィスアネモネに所属[22]。 声優業の傍ら音楽活動も行い、作品によってはキャラクターソングを歌う他、個人名義でシングルを出すこともある。 年譜
人物・エピソード趣味は映画、音楽鑑賞、ゲーム、家庭菜園[11]、旅行[5]。特技は松任谷由実の物真似[5]。 学生時代で得意な科目は沢山あり、苦手な科目は数学を挙げている[13]。 尊敬する声優は仕事を一緒にするたびに増えていくため、沢山いると語る[13]。 好きなアーティストは新居昭乃を挙げている[12]。好きな作家は星新一を挙げている[13]。 好きな映画は『ショーシャンクの空に』、『キューティ・ブロンド』、『ノッティングヒルの恋人』を挙げている[11]。 好きな言葉(座右の銘)は「めげない逃げない諦めない」[11]。 ソニー・ミュージックエンタテインメント(Sony Music)が運営していたブロードバンドサイト「MORRICH」内にて、子会社のSMEビジュアルワークス(現・アニプレックス)紹介番組で、ナビゲーターを務めていた。また、Sony Musicグループの芸能事務所ミュージックレイン・第1回スーパー声優オーディション」では審査員を務めた。 特色2011年時点では年齢に応じた役があり幅広い役を演じ分けられるようになりたいという[50]。2011年時点の役柄としては、ストイックなキレキャラが多く、現場の監督もファンからも、「以前のアイドルキャラより今のほうが合っているのではないか」という声もあった[50]。その反対に「もうちょっと清楚な可愛らしい役をやってほしい」という意見もくれて田中自身は「どちらもチャンスがあればチャレンジしていきたい」と語る[50]。 転機となった作品は『あずまんが大王』の水原暦役、『宇宙のステルヴィア』の栢山晶役、『ローゼンメイデン』の水銀燈役などがあり、このあたりから、かわいらしい役以外のもが多くなっていった[10]。こうした役がすんなり演じられたのは、一緒にさせてくれた先輩を観察、勉強させてくれたこと、様々なジャンルの作品を観ていたことが大きいと語る[10]。 声優になってみてから「勉強しなくては」と思ったことは早口で、レッスンで習うことになったという[3]。 オーディションはたくさん受けてたくさん落ちており、自分なりの演じ方、監督の意見、見る側の意見がそれぞれ異なり、「いい」と言ってくれる人物もいれば、「合ってないんじゃない?」と言われることもあり、「どれもきちんと受け止めてやっていきたい」と語る[51]。しかし最初は落ち込むことも多く、2011年時点ではブログでも厳しい意見が来ることもあり、「すべて受け止めつつ次に備えて頑張ろう」という気持ちでいないと精神的に持たないと語る[51]。オーディションに落ちると凹み、自分が好きな作品だったりすると、悲しいという[51]。凹んだ時に持ち直すコツとしては、「落ちてしまったらスッパリ忘れること」であるといい、「自分にはご縁がなかったんだな」とあまり思い詰めても仕方なく、その気持ちを引きずったままで次のオーディションに臨んだりしたら本来転倒であるという[51]。しかし相当好きだったものに関しては少し引きずってしまうという[51]。 新人の頃は「自分は、大丈夫なのかな」など、後ろ向きな考え方をしてしまうタイプだったことから引きずっていた[51]。しかし「それじゃいけないし、いつか自分にもチャンスが巡ってくることを信じてやらないと、すべてがどんどん別の方向に向かって行ってしまう」とひたすらチャンスを信じて頑張ってきたという[51]。オーディション時は、それなりに作り込んで臨むタイプだが、ダメ出しを受けて何テイクも録るような時に「このぐらいしかできなんだな」とジャッジされるのは寂しいため、その場で色々な対応できる余白部分は残しておくように気をつけている[51]。2011年時点では声優の仕事も10年以上になるため、声質など芝居の感じを把握している音響監督から「今回はオーディションの役ではなくてこっちの役で来てください」といった指名を受けることも多くなり、「ありがたい事だ」と語っている[51]。 新人の時は「とにかく周囲に失礼のないように」ということばかり気にしていた[51]。2011年時点では年齢を重ねてきたこともあり、緊張のしかたが以前と違ってきて、本番では特にノイズを出さないように気をつけている[51]。リハーサルでは忘れていたが、本番になり、「急にお腹が鳴ってしまったらどうしよう」など意識すればするほど緊張してしまうという[51]。衣擦れのノイズなど、高性能のマイクは僅かな音まで全部拾ってしまうことから、ノイズにはナーバスになってしまうという[51]。スタジオ内は機材の熱を下げるために温度を低く設定しているため、寒くて喉が閉まってしてしまったり鼻が詰まったりすることもあり、それが心配のため、暑い日でも常に長袖の服を1枚持ち歩くようにしているという[51]。 一迅社発行のコミックス『噂屋』1巻の帯文を担当しており、同コミックスの第4話では、田中をモデルとしたキャラクター・田中リエが登場している。『ハヤテのごとく!』第49話では「マリア十七歳の執事通信」の題字も担当している。 自身が声を演じたキャラクターのコスプレ(『ローゼンメイデン』の水銀燈など)をしてイベントに参加したり、その姿で歌う機会も多い。『鋼鉄天使くるみ』のサキのコスプレをしているポスターが雑誌の付録になったこともある。また、『少年サンデー 公式ガイド「ハヤテのごとく!」』では、記念に作られたマリアの衣装を着て、原作者・畑健二郎、監督・川口敬一郎と対談した(同誌には衣装の型と作り方も記載されている)。『声優アニメディア』に連載中のコラムでは、毎回紹介する映画をイメージさせるコスチュームの写真を掲載している。また、そのコラムの別ショットなどに撮りおろしを加えた写真集、トレーディングカード、2010年版カレンダーが発売された。 『ファイナルファンタジーXIV: 新生エオルゼア』ではカヌ・エ・センナ役と嵐神ガルーダ役の二役を担当しているが田中自身が『旧FF14』からのプレイヤーであり、収録の際もキャラクターの生い立ちについての説明などは一切不要だったという。『新生FF14』になってからも相当にやり込んでいる様子(本人曰く「生活の一部」)で、2周年記念の生放送ではゲーム内で手に入るコスチュームを実際に自作して出演していた。 基本的に人前で歌うことは好きだが、なかなか歌詞が覚えられず、ライブの前には何度も何度も曲を聞いて練習しないといけないという[52]。ライブでも緊張で吐きそうになるという[52]。その点、水樹奈々を尊敬しており、水樹のようになりたいと語る[52]。 交友・対人関係2010年頃から佐藤利奈、畑健二郎など、Twitter仲間を積極的に増やしていた。しかし、2013年6月22日に起きたアニメ『超次元ゲイム ネプテューヌ』先行上映イベントでの襲撃事件を機に、Twitterでの活動を休止した[53]。 2012年6月17日、声優の山寺宏一と結婚したことをブログにて発表[6]。またその後、自身のオフィシャルファンクラブ「Cafe de Rie」を解散。2016年に放送された『斉木楠雄のΨ難』で楠雄の母方の両親役で山寺と夫婦共演する。2018年8月3日、Twitterにて7月に山寺と離婚したことを発表[7]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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ディスコグラフィ→Uz:MEの作品については「UzME § ディスコグラフィ」を参照
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