日本における自動車の年表日本における自動車の年表(にほんにおけるじどうしゃのねんぴょう)では、日本における自動車についての出来事を年表形式に掲載する。二輪車、三輪車、無限軌道車も含めるが、基本的に四輪車について記述する。 時代区分日本の自動車史においてどこに時代区分を置くかという点は概ね以下のような説がある。本記事では、節を分けて記事の見通しを良くするための便宜上、各説を折衷して時代区分を行っている[注 1]。
戦前期自動車の伝来(1890年代~)19世紀末に外国から日本に自動車が持ち込まれ始める(自動車の渡来)。20世紀(1901年)に入ると、外国商館による輸入が始まり、少量ながらまとまった数の自動車が持ち込まれるようになる。当時は世界でもガソリンエンジン車は主流の地位を確立しておらず、日本にもガソリンエンジン車以外に蒸気自動車や電気自動車も持ち込まれた。この時期の出来事は不明瞭なことが多く、調査・研究によってそれまでの通説が変更されたことが少なくない。
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国産車の始まり(1904年~)自動車が広く知られるようになるにつれ、国産車製造を志す者が各地に現れる[67]。しかし日本の工業技術全体の未熟さから産業としての自動車工業が確立する条件はこの時期にはそろわなかった[W 4]。欧米から自動車を持ち帰る者たちも現れるが、おそろしく高価であることに加えて必要性も不可解であることから骨董趣味の変形くらいに考えられており[68]、上流階級の者たちの道楽という側面が大きい時期だった[注 20]。
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欧州車の時代(1911年~)優美な欧州車は自動車の主要顧客である上流階級の者たちに好まれ、主流の地位を占める。皇室や官公庁でも自動車が利用され始め、タクシー事業を始める者たちも現れ始める。第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を背景に軍用としての研究も具体性を帯び、陸軍主導で実験的に車両が作られるようになる。民間においても各地で国産の乗用車の製造が試みられるものの試作の域を出る物はなく、米国から輸入され始めたフォード・モデルTは徐々に勢力を拡大し始める。
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関東大震災後、フォードとGMの日本進出(1923年~)関東大震災(1923年)により、それまで贅沢品と見られていた自動車はその実用性を広く認識されるようになる[76]。その変化をいち早く察知し商機を見出したフォードは本格的に日本に進出してノックダウン生産を始め(1925年)[150]、遅れて日本に進出したゼネラルモーターズ(GM)と共に日本を舞台に販売合戦を繰り広げる。白楊社が日本の国情に適した小型乗用車の製造を始めるなど、国内にも有望な自動車製造会社が育ちつつあったが、それらの小規模な会社は米国車の急速な台頭によって駆逐され[W 4][注 50]、軍用自動車補助法(1918年施行)による保護を得ていた一部の会社を残して日本の自動車製造会社は消滅していくことになる。
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国産車の保護(1931年~)フォードとGMの組立車による寡占が続く中、満洲事変(1931年)で軍用自動車の有用さが確認されたことで国産自動車保護の動きが進み、自動車製造事業法の制定(1936年)によりそれまで隆盛を誇っていた米国車は日本国内から排除されていくことになる[W 58]。
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戦時統制期(1937年~)日中戦争の開戦(1937年)と日本への国際的な貿易制限の始まりにより民間の自動車の製造は軍用に制限される。太平洋戦争(1941年 - 1945年)を背景に乗用車の製造は1938年から戦後の1949年にかけて日本政府とGHQによる2度の禁止命令を受け、長く厳しい暗黒時代[176]を送ることとなる。燃料統制によりガソリン自動車は代用燃料車に置き換えられていく。
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戦後GHQによる統制(1945年~)戦時中の統制はGHQもほぼそのまま維持し、物資不足に加えて戦後直後の悪性インフレなどの影響もあり自動車の生産は困難な状況が続く[W 84]。民間では軍需産業から民需産業への転換がGHQの命令により促され、航空機製造会社の解体に伴いそれらの人材や設備は自動車産業に移ってくることになり、業界の再編が戦後直後から進む。
本田技研工業の創業(1948年)
戦後復興とモータリゼーション(1950年~)朝鮮戦争の勃発(1950年)によりGHQの統制政策は一変し[W 90]、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、自動車製造会社の業績は好転する[W 103][W 104]。並行して自動車製造会社は作業や設備の合理化を進めて生産性を高め、大きな利益を生むことになる[198][W 51]。既存メーカーの多くが海外メーカーとの提携によるノックダウン生産で技術の蓄積を図る中、新興の会社の参入も相次ぐ。
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1953年:日野・ルノー・4CV、日産・オースチン・A40、いすゞ・ヒルマン・ミンクス[注 87]
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トヨペット・コロナ(1957年) ダットサン・ブルーバード(1959年)
1960年:三菱・500とマツダ・R360クーペ
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マイカーの普及と交通戦争(1966年~)日産・サニー、トヨタ・カローラの発売を契機としてマイカー[注 113]の普及が進み、1966年時点で国内で230万台弱だった乗用車保有台数はその後の10年で1,700万台超まで増加する[W 155]。それは同時に交通事故死者数の増加(交通戦争)、大気汚染や騒音等の公害をもたらし、車による社会問題が注目を集めることになる。
1966年:日産・サニー(初代)とトヨタ・カローラ(初代)
1967年:日産・プリンスロイヤル、トヨタ・2000GT、マツダ・コスモスポーツ
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1969年:日産・スカイラインGT-RとフェアレディZ
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1972年:ホンダ・シビックCVCCとCVCCエンジン
オイルショックと排ガス規制(1973年~)第1次オイルショック(1973年)により、日本はインフレ(狂乱物価)と不況が共存する状態(スタグフレーション)となり、自動車製造会社はその対応を余儀なくされる[W 184]。自動車排出ガスへの規制を盛り込んだ大気汚染防止法の制定(1968年)、公害国会(1970年)、環境庁発足(1971年)を経て、1972年に環境庁は日本でもマスキー法に準じた排出ガス規制を行うよう勧告し、1978年には世界で最も厳しいと言われる排出ガス規制が制定されるに至る(排出ガス規制)[W 183]。この排ガス規制の強化により、1960年代に各社が投入したスポーツモデルは次々に姿を消していくことになる[W 185]。
ロータス・ヨーロッパスペシャル(『サーキットの狼』仕様)とランボルギーニ・カウンタック
米国現地生産の始まりとバブル景気(1980年~)日本の自動車生産台数が国別で世界1位となり(1980年)、日本は名実ともに押しも押されもせぬ自動車大国となる。一方、米国向けの旺盛な自動車輸出は日米貿易摩擦の一因とみなされ、日本の自動車製造会社は米国現地生産に進出することが不可避となり、1980年代の内に各社が米国で工場を操業開始することになる[W 196][W 201][注 132]。国内では好みの多様化や女性ドライバーの増加を反映して従来の「少品種大量生産」から「多品種少量生産」に移行し[W 125]、好調な業績やバブル景気(バブル時代)を背景に個性的な車両や大馬力の高性能車両が様々に作られた。バブル景気の影響により、1980年代後半は高級セダンが人気となり、ハイソカー(1984年以降)、シーマ現象(1989年)などのブームが起こる[注 133]。
1986年:ウィリアムズ・FW11とホンダ・RA166Eエンジン
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バブル崩壊後(1992年~)バブル崩壊を機に日本では購入者の嗜好が大きく変化し、バブル期に人気を博したセダンや大型車が低迷していく一方、RVやツーリングワゴンといった車種が人気となり、車両サイズでもコンパクトカーや軽自動車が売上を伸ばす[W 240]。また、バブル期に当時の風潮とは逆の方向で企画された軽トールワゴン(軽ハイトワゴン)やミニバンがこの時期に発売されて予想外のヒットを記録し、ジャンルとして浸透していくことになる[W 241]。
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合従連衡と環境技術(1997年~)1998年にダイムラー・ベンツとクライスラーが合併し、世界的な業界再編の機運が高まる[W 252]。日本国内では年間の生産台数400万台が目安のように語られ(400万台クラブ)、合従連衡の動きが盛んになる。
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KAZ(2001年)とエリーカ(2004年)
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世界金融危機以降(2008年~)※世界金融危機の時期で区切るかは定説や通説はなく、この記事では便宜上、区切りを設けている。
三菱・i-MiEV(2009年)と日産・リーフ(2010年)
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ホンダ・スーパーカブの製造台数の推移(1958年 - 2017年)
新型コロナウイルス感染症の流行(2020年~)※新型コロナの時期で区切るかは定説や通説はなく、この記事では便宜上、区切りを設けている。
脚注
記載ルールなるべく特筆性のある事柄に絞って記載している。そのため、以下のルールを設けている。
注釈
出典
参考資料
関連項目
外部リンク
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