日産モータースポーツ&カスタマイズ
日産モータースポーツ&カスタマイズ株式会社(にっさんモータースポーツアンドカスタマイズ、英文:NISSAN MOTORSPORTS & CUSTOMIZING CO., LTD.、略称:NMC)は、日産自動車グループにおいてモータースポーツ事業や、特装車事業などを手がける企業。2022年3月までの商号は株式会社オーテツクジヤパン(読みはオーテックジャパン、英文:AUTECH JAPAN, INC.)。 2022年4月1日に、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社と統合して現商号に変更した[1]。旧オーテック社が存続会社となり、本社はオーテック事業所側に置かれる。旧ニスモは当社のニスモ事業所として事業を続ける。 本項では主に旧オーテックジャパン側について扱う。旧ニスモについてはニッサン・モータースポーツ・インターナショナルも参照。 ![]() ![]() 沿革1986年10月、日産プリンス自動車販売(1987年に日産自動車販売に統合)の特販推進室の業務を譲り受け、日産自動車の特装車部門の開発企画・製造を目的とした関連企業「オーテックジャパン」として設立された。社名は、当時の日産自動車社長である久米豊の「大手を食う=オーテック」とのダジャレから考案され、「Automobile Technology in Japan」を略したものである。 初代社長には、日産自動車と合併する以前のプリンス自動車工業出身の桜井眞一郎が就任した。桜井は、長年にわたってスカイラインの開発に携わった人物である。旧・プリンス時代に発売されたスカイラインの初代から企画開発に携わり、2代目(S50型)では開発責任者(開発主管)に就任。日産との合併後に発売された3代目(C10型・ハコスカ)、4代目(C110型・ケンメリ)、5代目(C210型・ジャパン)、6代目(R30型・ニューマン)、7代目(R31型・7th〈セブンス〉)と連続して開発主管を務めた。しかし、7代目の企画開発が終盤に差し掛かった1984年に突然病に倒れて入院することとなり、以後のスカイラインの開発主管は、旧・プリンス時代からの後輩であり、一番弟子の伊藤修令を後継者として任せることとなった。 のちに無事に手術を終えて退院し、復職した桜井は、スカイラインの開発主管には復職せず、日産の新設部署である技術車両設計部の部長に就任して「パイクカー」の企画開発に携わっていた。しかし、スカイラインを人気車種に育て上げた功績、桜井自身が旧・プリンス時代からの商品企画に継承されていた妥協しない技術者魂の職人気質であること、旧・プリンスと比べて規模の大きい日産では桜井が理想とする仕事がなかなかし難い環境であったことを踏まえ、桜井の良き理解者でもあった久米の計らいにより同社の社長に就任した。 1987年5月には社屋が竣工した。社屋は、桜井がスカイラインの開発主管を務めていた際、こだわりの1つであった「直列6気筒エンジン」をイメージしたデザインで建築されており、他に「V型6気筒エンジン」をイメージしたデザインの別棟も存在している。 前述した伊藤は常務取締役(現在は顧問)に就任した。また、元・プリンスワークスドライバーの古平勝、プリンス時代から継承される日産の企画開発部門・関連各社出身者で構成される、通称「桜井学校」「桜井ファミリー」と称される旧・プリンス入社組を含む日産社員や、1979年10月-1984年10月までテレビ朝日系で放送されていた石原プロモーション製作テレビ映画『西部警察』で、当時、日産プリンス自動車販売の特販推進室にて受注したフェアレディZやスカイラインなどの数々の特殊車両を製作した日産社員などが数多く出向・移籍した。 意欲的な特装車の開発や、スカイライン、シルビアの独自チューン、オーテック・ザガートステルビオの開発などで絶えず注目を浴び、日産ファンをはじめとして、旧・プリンスファン、歴代のスカイラインファン、自動車ファンなどから信頼の厚い特装車メーカーとして名を馳せた。 なお、初代社長を務めた桜井は、1995年にオーテックジャパンから独立して「エス・アンド・エス エンジニアリング」を設立。主に旧車のレストアやボディー補強材やディーゼルエンジンの排出ガス浄化装置の開発・販売を主な業務とし、オーテックジャパン在籍時と同様、信頼の厚いメーカーとして名を馳せて現在に至る。 2016年4月1日付の人事異動で、それまで務めた宮谷正一に代わり、日産自動車副社長を務めた片桐隆夫が代表取締役兼CEOに就任した。なお、片桐は前任者の宮谷同様、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(通称:NISMO)の代表取締役兼CEOも兼任する。 2017年4月1日の組織変更で、新たに「ニスモカーズ事業部」が新設された[2]。NISMOロードカー車種の企画開発・マーケティングを当該事業部に集約したものであり、今後のNISMOロードカーの全世界戦略の拠点となる。 2022年4月、前述の通りニッサン・モータースポーツ・インターナショナルと統合し、社名を「日産モータースポーツ&カスタマイズ」に変更した。 販売車種→詳細は「日産モータースポーツ&カスタマイズの車種一覧」を参照
レース活動
旧ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル本社が当社の「ニスモ事業所」となり、モータースポーツ事業を継続する[3]。NISMOブランドも継続される。 2021年までのレース活動は、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルを参照。 SUPER GT![]() 2022年以後もSUPER GT / GT500クラスに参戦。日産陣営の主要4チームはR35型GT-Rでの参戦を終了し、RZ34型フェアレディZにベース車両を変更した[4]。同年よりNDDP RACINGの車両メンテナンスも担う[5]。 フォーミュラEフォーミュラE開幕初年度の、2014-15年より参戦。資本提携を結んでいたルノーとDAMS(e.dams)のパートナーチーム、「チーム・e.dams・ルノー」として、元F1ドライバーのアラン・プロストとジャン・ポール・ドゥリオの共同運営のもと参戦した[6]。 2018年-19年より、ルノーがF1への資金注力のためフォーミュラEから撤退。これに代わってニッサンがチームのマニュファクチャラーとなり、「ニッサン・e.dams」として新たに始動した。 2022年、日産自動車は「e.dams」を買収すると発表[7]。2022年-23年、より単独参戦を開始し、チーム国籍も日本へと変更された。2024-25年のエントリー名は、「ニッサン・フォーミュラEチーム(Nissan Formula E Team)」 シーズン11(2024-25)でオリバー・ローランドがベルリンE-PRIXで最終戦を待たずに、ドライバーズチャンピオンを獲得、チームランキングは3位となった。
イベントなど里帰りミーティング正式名は「AOG(Autech Owners Group)湘南里帰りミーティング」。 2004年12月に開催された「オーテック オーナーズフェスティバル in 大磯」を前身とし、創立20周年を迎えた2006年からオーテックジャパンで架装された車両を所有するオーナーとの親睦を深める目的で開催される。毎年1回、10月-11月頃に大磯ロングビーチで開催され、当日はオフ会の他、各種イベントも行われる。スタンスとしては、ルノー・ジャポンが毎年5月頃に開催する「カングージャンボリー」と酷似している。 参加資格はオーテックジャパン(現・日産モータースポーツ&カスタマイズ)架装車両ユーザー(ならびに、その同伴者)であること以外、車種・年式は一切不問である(日産車ではないが、オーテックが開発に深く携わっているオーテック・ザガートステルビオ/ガビアでも可)。 なお2017年からは、ニスモカーズ事業部がオーテックジャパンに設立されたことにより、NISMOコンプリート仕様車も参加が認められるようになった。 2020年と2021年については、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から早々に開催見送りを発表したが、2022年は3年ぶり、かつ社名変更後初の開催となる[8]。 NISMOフェスティバル毎年1回(11月下旬または12月上旬)、ファン感謝デーとして「NISMOフェスティバル」を開催している[注釈 1]。 歴代のレーシングカー等が実際に走行するほか、ガレージセール、限定グッズ販売、Zチューニングカーバトル、マーチカップ、歴代レーシングカー全開バトル、歴代NISMOコンプリートカーパレード等が行われている。 NISMOフェスティバル2005ではR380、R381、R382に加え、トヨタ・ニュー7がデモ走行を行い、1960年代の日本グランプリに参加していたプロトタイプレーシングカーが揃い踏みした。NISMOフェスティバル2006では、「幻のマシン」といわれたR383が初めて一般の観客の前に登場し、長谷見昌弘がドライブした。NISMOフェスティバル2007では、新型日産・GT-Rのテストカーと、スーパー耐久仕様フェアレディZと0‐200加速、ブレーキ制動力対決が行われた。他にも、2008年からSUPER GTに参戦予定のGT-R(GT500仕様)が走行した。 2022年は3年ぶりに開催される[8]。 拠点情報発信計5つのSNSサイトから定期的に情報発信をしている。 脚注注釈出典
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia