速水奨
速水 奨(はやみ しょう、1958年8月2日[5][13][14][注 1] - )は、日本の声優、俳優、歌手。兵庫県高砂市出身[5][6][7][8]。Rush Style代表・所属[10]。 妻は同じく声優の五十嵐麗、甥(現養子)は声優の速水秀之[5]。 経歴生い立ち兵庫県高砂市出身[5][6][7][8]。男3人兄弟の末子として生まれる[4][5][7][15]。 父は沖縄県出身で、戦時中は少年飛行兵に志願していた県庁の納税係の公務員[5]。2人の兄は教師、サラリーマン[8]。2歳ずつ離れた兄たちが優秀で、幼稚園から高校まで兄弟3人全員同じ学校で、父も同じ高校の卒業生であった[15]。 高砂市にあった生家は県営住宅であり、50坪の土地に井戸を囲む形で並んでいた4軒の平家の1軒に住んでいたが、速水が生まれる前に買い取って持ち家にしていたという[5]。 幼少期は兄達に連れられて山、川を駆け巡って、擦り傷だらけだった[4]。 小学校(高砂市立阿弥陀小学校)時代は「神童」と呼ばれていた長兄の七光りもあって、低学年の頃から一目置かれていた[5][15]。小学生の頃は地域ごとに一斉登校をするのが決まりであったが、速水らの地域のグループと別の地域からのグループが通学路で途中一緒になり、通学路で上級生が別の地域同士の下級生同士に「試合しろ」といって取っ組み合いをしていた[15]。ガキ大将のような面もあったかもしれず、剣道や柔道の試合のように、先鋒・中堅・大将と順々に出ていくこともあったが、速水はいつも先鋒で出て行き、隣町の人物を泣かしていたという[15]。一方、小学校の6年間から中学3年生まで一学期の学級委員長を務め、学芸会の主役などに抜擢されていた[4][5][7][15]。当時は2人の兄が委員長になっていたため、おこぼれにあずかったという形で、怖いものがなかった[7]。しかしどこかで兄達の力を頼っていたかもしれないという[7]。 好きだった課目は国語で、本を朗読することや喋ることが好きだったため、「なんとか僕を当ててくれないかな」と教師を見ていた[4]。アナウンサーになりたいと思っていた時期が長かったという[4]。 小学校6年生で健康優良児として表彰される[7]。1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得した男子バレーボールに憧れて、中学(姫路市高砂市中学校組合立天川中学校[5][8])時代はバレーボール部に所属してエースアタッカーとキャプテンを務める[4][7]。ほかにも園芸クラブと郷土史研究クラブにも所属していた[3]。 高校(兵庫県立加古川東高等学校[5][8])でも1年目はバレーを続けたが、身長が伸び悩んだことで退部した[3][7][12]。 前述の通り父は公務員で、小~中学校でも成績は良かったため、「自分もいずれは大学を出て公務員になるんだろう」と漠然と思っていた[15]。中学校の成績は1~2位を争っていたが、高校進学後の最初の定期テストで順位が3桁台になってしまい、「これはもう勉強じゃかなわないな」と思っていた[15]。 キャリアその矢先に、地元で行なわれた西田敏行主演の青年座の舞台『写楽考』を観劇して「こんなになまめかしくて、おどろおどろしいものが現れるのか」と感銘を受けたことから、高校1年生の終わりに先輩に誘われて演劇部に入る[4][7][12][15]。入部後は戯曲を読むようになり、当時は、学業からの逃避のようなものでもあったと語る[15]。 高校時代の芸能鑑賞会で能楽作品の『隅田川』を観ていたことも大きかったといい、中学時代の国語の授業で、狂言師が朗読をしていた中島敦の『山月記』を聴いて、声で表現する面白さを知ったことも伏線になっていたと語り、活動の原点は、声による表現を重視した古典芸能への興味にあったという[5]。もう一つの原点は幼い頃のごっこ遊びで、テレビで観ていたテレビアニメ『鉄腕アトム (アニメ第1作)』、プロレス番組の影響で友人と別人になり切ってストーリー仕立てで遊ぶことをしており、「同じようなことを、今も仕事でやっているな」と感じることがあるという[5]。「高校時代の目標はありましたか?」という質問に対して、「大学に進学して本格的に演劇を勉強したいな」と思っていた[3]。「劇団へ入ろうとは思わなかったんですか?」という質問に対しても、「大学の演劇科に進学して、もう少し芝居の勉強をしてから」と思っていた[3]。 高校2年生の終わり頃には、本格的に舞台俳優を目指すようになったといい、演劇部で芝居をやりつつ演劇雑誌を読んだり先輩の話を聞いたりしていくうちに「自分もプロとして舞台に立ちたい」と考えるようになった[15]。しかし「大学には行くだろうな」と考えていたが、勉強しなさ加減、演劇への熱意、上京に対する憧れ、色々考えていくと「これは大学に行ってる場合じゃないな」と思った[15]。 しかし高校3年生の時に焦ってしまい、「今やるしかない」と思い始めた[3]。進路を決める三者面談の時、母に「僕は大学に行かない。東京に行って芝居をする」と伝えたところ、「自分の力で行きなさい」と言われた[15]。その後、高校3年生の2学期から「演劇をやるために東京に出よう」と決心して、資金作りで果物屋で店員のアルバイトを始め、当時は登校するのは店の定休日だけという状態だった[3][7][8][12]。アルバイトで得たお金は、上京のための資金にあてるつもりで、「このままここにいれば、それはそれで平和な一生が過ぎていくんだろうな」と思っていたが、とにかく新しい自身を見つけたかったという[7]。 父には、だいぶ後になって話をして、父からは「この劇団ならどうだ」と知り合いの劇団の事務長を紹介されていたが、共同生活を送らなければいけず、どこか考え的に合わない部分があり断った[15]。今度は「大学には夜間もあるから、芝居の勉強と同時にやったらどうだ」と言われた[15]。父は色々な事情で大学に行けなかった人物のため、公務員になってからも大卒の人物と比べて出世に差がつくことを身をもって知っており、「息子には大学に行ってほしかったんだ」と語っていたという[15]。ただし、「大学で遊んでる暇なんてない」という思いだったため、結局、言うことを聞かずじまいであった[15]。一応、親として「反対している」という図式はあったといい、そのため父も色々な妥協案を出してくれたと語る[15]。 高校卒業後は、東京の叔母を頼って上京し、昼は貿易会社で働き、夜間に青年座研究所で芝居を学ぶ生活を送る[5][7]。半年後、日下武史に憧れて劇団四季へ移る[7]。同期には榎木孝明がいた[7]。東京での初舞台は35歳の映画のプロデューサー役で、朝加真由美が同期で相手役を演じていた[3]。 東京に来て一番最初のアルバイトは力仕事だったが、当日までどこに行くかはわからず、「蒲田駅東口に〇時集合」とだけ言われ、行ってみると安全靴などを手渡された[15]。その時にトラックの荷台に乗って連れて行かれた先で、引越しや荷下ろしなどをしていた[15]。しかしそのように何をするかわからないアルバイトだったことから、一緒に働きに行く人物もワケありな感じの人物が多かった[15]。結局、「これをずっと続けていたら、自分の気持ちもすさんできちゃうな」と思い、そのアルバイトは辞めた[15]。 その後は、同じ力仕事だが、品川の港南にある冷凍庫で冷凍されて保管されていた豚肉を担いで車に乗せて、精肉店へと持っていく農協の畜産部で、大変な仕事ではあった[15]。その時は同じ業界や、映画監督を目指していた人物と一緒に働いたりして、面白い人物が集まっていたという[15]。 声優として劇団四季がミュージカル路線に切り替わりつつあり、演劇から気持ちが離れて3年で退団し、東京都台東区上野で始めていたウェイターのアルバイトに励んでいた22歳のころ、たまたま雑誌『ぴあ』でニッポン放送主催の「アマチュア声優・ドラマ・コンテスト80」を知り、副賞の賞金10万円に惹かれて応募する[3][4][5][7][8][12][15][16][17]。1980年10月10日、同コンテストのグランプリを受賞したことを切っかけに声優デビュー[3][7][12][18]。ニッポン放送のラジオドラマ『超人ロック〜コズミックゲーム〜』や、ニッポン放送も関係したアニメ映画『1000年女王』などに出演した[3][7]。本人はこの仕事を始まる前はアニメはまったく観ておらず、アフレコのマイクの前でどうやればいいかも知らなかった[19]。 1982年、『機甲艦隊ダイラガーXV』の出雲タツオ役で初めてのレギュラー出演し[3][7][8]、初めて受けたオーディションで合格した『超時空要塞マクロス』のマクシミリアン・ジーナス(マックス)役を好演し[20]、後番組『超時空世紀オーガス』では自身初の主人公役を演じる。そのほかのロボットアニメ作品でも、二枚目役や美形ライバル役に起用されて人気声優となる[19]。また、CMやテレビ番組のナレーションも多数受け持つ。OVA版『デビルマン』や『勇者エクスカイザー』が声優活動の転機となり、正統派のイメージとはギャップのある役柄も演じるようになる[21]。また、乙女ゲームの草分け的な「アンジェリークシリーズ」など、女性向けコンテンツでも支持を広げる[22]。1990年代前半より個人名義やユニットでの歌手活動なども行っており、2003年より自身がプロデュースする『S.S.D.S. 〜Super Stylish Doctors Story〜』を各メディアで展開している。 劇団四季[10](初期)→飛鳥企画[3]→ぷろだくしょんバオバブ[23]→大沢事務所[2][4][14]→青二プロダクション[24]→大沢事務所を経て、2014年2月1日からフリーとなる[25]。これに先立ち2013年10月には声優&アーティスト事務所「Rush Style」(ラッシュスタイル)を立ち上げ、その代表に就任。2014年10月よりRush Styleの業務が本格的に始動したのを機に、妻の五十嵐麗や新人の高沢柚衣が同社に移籍し、同時に自身のマネージメント業務も委託した。2017年4月には事務所付属の養成所「RSアカデミー」を開所した。 現在までデビュー40周年の節目となる2019年は、若手声優らとラップに挑戦した『ヒプノシスマイク』が第13回声優アワードにて歌唱賞を受賞[26]。Rush Styleの教え子で、『ヒプノシスマイク』でも共演する野津山幸宏とお笑いコンビ「ラッシュスタイル」を組んで「M-1グランプリ」予選に出場し、1回戦を突破したものの2回戦で敗退した[27]。 2020年、『仮面ライダーゼロワン』で特撮作品に初出演した[28]。 特色小学校5年生の冬休みに1週間声が出なくなり、そのあと1オクターブ低い現在の声に声変わりした[29]。その声は自分の父親の声とそっくりだという[30]。速水と新人時代から仕事をしている河森正治は「その声には、華があり、艶があり、秘密がある」「作品世界に、広がりと、大いなる高みと、底知れぬ深みをもたらす声」と形容している[31]。小川びいは「女性をとろけさすような甘い声が魅力」と評している[24]。 「声優わちゃわちゃ」にて増元拓也と安元洋貴と自身の3人で低音の対決をしたところ、二人を大幅に下回る17Hz(ヘルツ)というピアノの鍵盤でいう最も低いキーよりも低い驚異的な数字を叩き出した。実験に協力した千葉音声研究所代表の村岡睦稔によると、速水の声は「マイクの性能ギリギリ、ひょっとしたらもっと低いのかもしれない」「テレビやスピーカーは基本的に20Hz以下は出ないので、テレビでは低音部分が削れている可能性がある」と言う[32]。 演じる役は、二枚目の美形キャラ[7]、主人公のライバル的な役[24]、美形悪役を演じることが多いが、敵味方問わず重要な役割を演じることも多い[33][34]。 兵庫県出身で、演技でも『トライガン』のニコラス・D・ウルフウッド役や『龍が如く7』の石尾田礼二役などで関西弁を用いるケースがある。昔は関西弁がイヤでたまらず、標準語に憧れていたが、友人同士で標準語を喋っていると「ええカッコしい」と言われ差別された程だった[7]。 『トランスフォーマー』シリーズのアイアンハイドやウルトラマグナス、『勇者エクスカイザー』のエクスカイザー、『伝説の勇者ダ・ガーン』のダ・ガーンやガ・オーン、『からくり剣豪伝ムサシロード』のジュウベエなど、正義のロボットヒーローを多数演じている。なお、『勇者エクスカイザー』のDVDボックスでは自身を「色気あるロボット声」と称している。速水は『トランスフォーマー』のときはスケール感や力強さ、『エクスカイザー』や『ダ・ガーン』の際は「もっと意外性を持たせたい」という思いからヒューマンな部分を盛り込んで演じ、子供に違和感を抱かせない演技を心がけていたという[35]。 出演作のイベントではアドリブを連発して、共演者を翻弄する一面も見せる[36]。 人物初期の出演作には本名の「大浜靖」名義でクレジットされている。芸名の姓を「速水」としたのは、もともと「はやみ」という言葉を使いたかったためであり、「『ガラスの仮面』の速水真澄が由来」という通説は正解ではない[37]。「奨」は姓名判断で選んだ[37]。 演技にあたっては作品の台本を(原作つきのメディアミックス作品の場合は原作も)読み込んで、自身が演じるキャラクターを研究しているという。 2006年に亡くなった義姉の子供で、甥に当たる声優の速水秀之を養子に引き取った[38]。 特技は謡曲[10]。趣味は料理、アンモナイト鑑賞、飼い猫と遊ぶ[10]。 自宅では「カイザー」という1匹のオス猫を飼っており、自身のブログではたびたび登場している。カイザーは体重が6キロ(記載当時)だったが、2015年2月時点では12キロにまで太ってしまった。名前の由来は「面構えが皇帝っぽかったから」で、自身が演じた勇者エクスカイザーとは無関係、しかし無意識に「カイザー」という響きが刷り込まれていたかもしれないとも語っている[39]。 毎朝自分で作っている味噌汁にはこだわりがあり、自身のTwitterに写真をアップしていた。 好きな言葉は「信念」、「やすらぎ」[3]。 森川智之と檜山修之のトークイベント『森川智之と檜山修之のおまえらのためだろ!』にゲスト出演した際に扮した医者「Dr.HAYAMI」を気に入り、Dr.HAYAMIが主人公のギャグドラマCD『Super Stylish Doctors Story(S.S.D.S)』シリーズの原作・脚本を自身プロデュースで手がけ、ゲーム版『GAME S.S.D.S. 〜刹那の英雄』までも作ってしまった。また、Dr.HAYAMI名義でキャラクターソングの作詞もしている。医師役には森川と檜山(ナースのトシ子・ノブ子も担当)や、関俊彦や堀内賢雄など過去に共演した声優が出演しており、楽屋ネタやパロディをふんだんに盛り込んでいる。森川とは同じ横浜DeNAベイスターズファンという共通点もあり、2022年よりニコニコ動画において『森川智之&速水奨の横浜DeNAベイスターズ応援チャンネル ~モリモリSHOWTIME~』というベイスターズ愛を語ったり、ベイスターズ戦の実況をするチャンネルを開設している[40]。 RSアカデミーの開所以前は、妻の五十嵐と共にドワンゴクリエイティブスクール(現SAY YOU LAB)で後進の指導にあたっていた。彼らに技術などを教える際、自分がこの道を目指したころの初心に戻れるという。女優・歌手の神田沙也加は速水の教え子で[41]、『しゃべくり007』で神田がゲスト出演した際にサプライズで登場した[42]。 お笑いコンビ「ラッシュスタイル」を結成したきっかけは、2018年秋の事務所の新人発表会で野津山幸宏が「漫才をやりたいと」と言い出したが相手がおらず、速水が名乗り出たことから始まる。もともと関西出身で松竹新喜劇や古典落語が好きだったが、「声の仕事をしているという部分で、自分たちの可能性を追求するつもりで、真剣にやってみよう」とM-1挑戦を決意した[43]。このニュースを正式発表すると、Twitter上で「速水さん」がトレンド1位になるという反響があった[44]。 幼少期から仮面ライダーシリーズを愛好しており、平成仮面ライダーシリーズも『仮面ライダークウガ』から観続けている[28]。『仮面ライダー電王』に出演していた関俊彦がそのキャラクターのセリフで歓声を浴びていたことを羨み、自身でも出演を希望するようになった[28]。『ゼロワン』以前にも仮面ライダーシリーズで出演候補に挙がったことがあったが、実現には至らなかった[28]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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