1976年の全日本ロードレース選手権
1976年の全日本ロードレース選手権 (1976ねん の ぜんにほんロードレースせんしゅけん) は、1976年3月7日決勝の鈴鹿2&4レース大会で開幕し[1]、同年10月10日の第13回日本グランプリロードレース大会(鈴鹿)で閉幕した全10戦による1976年シーズンの全日本ロードレース選手権である。 1976年シーズン本シーズンより、底辺の拡大を目指しライセンス区分の呼称が変更され、これまでの「セニア」「エキスパート・ジュニア」を統合して最上級区分「エキスパート」に変更、トップレベルから順にエキスパート > ジュニア > ノービス というピラミッド構成となった。メーカーワークスマシンが揃うフォーミュラ・リブレ部門(ポイント対象外)はエキスパートのみが参戦資格を持つ[2]。 エキスパート350ccクラスの設置また、これまで最上級区分ではクラス未設置だった350ccクラスが設置された。レース開催形態としては350ccと750ccは混走で、それぞれ参戦クラスごとの順位に対してポイントが与えられる(最上級区分では前年度まで350ccで参戦した場合、750ccクラスのポイント対象となっていた)。エキスパート250ccクラスも新設されここに混走するが、参戦台数が規定以下の場合はクラス不成立となる。エキスパートに350と250を新設した意図は、ジュニアからの昇格者がそのままの車両で出走できるため、プライベート参戦者の負担が軽減できるとの狙いがあったが、各クラス単独開催できる台数にならない場合は250/350/750の混合レースで開催せざるを得ないというこれまでと変わらぬ課題もあった[3]。 ワークスマシンのFL参戦エキスパート750ccクラスは、オイルショックの余波でヤマハ、スズキが海外レースワークス活動を休止した影響で[4]、両メーカーの国内フォーミュラリブレ参戦(賞典外)も縮小された。カワサキワークスは開幕戦に姿を見せ、前年参戦したレース連戦連勝したライムグリーン旋風を今年も継続するかと思われた。開幕戦でカワサキは清原明彦に国内初登場となるKR250を託し参戦、第2戦筑波では優勝を果たしたが、これを最後にカワサキもワークス車参戦を一旦休止してしまった。 スズキはシーズン前に契約ライダーの安良岡健・荘利光とのワークス契約を打ち切り、本年に向けて全日本ロードレース活動を休止する方向の動きを見せたが、第2戦筑波大会に「RG500」を社員ライダー・岩崎勝のライディングで参戦させ、清原に次ぐ2位でチェッカーを受けRG500国内デビューを飾った[5]。安良岡もRG500を持ち込みプライベート体制で参戦、RGの国内初優勝を奪った。安良岡のRGは岩崎のRGとは違い、ほぼ市販そのままの状態であった[6]。鈴鹿200マイルでも岩崎が完勝、WGP500で旋風を起こしたスズキ・RG500はポイント対象外とはいえ全日本選手権でもその速さを発揮した。ヤマハはTZ750で参戦した河崎裕之が第3戦、第4戦で2勝を挙げ、第6戦菅生では、全日本選手権に初登場となったYZR750を操る高井幾次郎が独走優勝、最終戦でも高井は独走優勝しワークスマシンの高性能を発揮した[7]。 日本グランプリロードレース大会は雨での開催となったが、カワサキワークスがKRを持ち込み、これを駆る和田正宏と阿部孝夫が優勢にレースを引っ張った。そのままカワサキ勢が制すと思われた展開だったがヤマハ・TZ250の毛利良一が猛追を続け逆転勝利を見せ、毛利のベストレースの一つと称えられた[8]。 競技人口の増加したエントリークラスでの試みとして、第7戦鈴鹿200マイル大会でのノービス90ccクラスでは鈴鹿のフルコースではなく、S字セクション終了後にショートカットする「東コース」を周回するレースが初めて開催され、レース総距離はフルコース開催時と変えずに周回数を多くする形で開催された。 エキスパートのシリーズチャンピオン争いでは、250ccと750ccクラスでは1位の獲得ポイントが30点以下だったため、規定によりチャンピオン該当者なしとなった[9]。 スケジュールおよび勝者
ポイントランキング
750cc
350cc125ccジュニア区分
関連項目脚注
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