宮野真守
宮野 真守(みやの まもる、1983年6月8日[18] - )は、日本の声優、俳優[6]、タレント、歌手[7][8]。埼玉県[6][7]出身、劇団ひまわり所属[9]、音楽活動はKING AMUSEMENT CREATIVE[19]よりリリース。 公式ファンクラブは「Laugh & Peace」。代表作に『DEATH NOTE』(夜神月)、『機動戦士ガンダム00』(刹那・F・セイエイ)、『うたの☆プリンスさまっ♪』(一ノ瀬トキヤ)、『Free!』(松岡凛)、『STEINS;GATE』(岡部倫太郎)、『ウルトラマンゼロシリーズ』(ウルトラマンゼロ)、『イナズマイレブン』(吹雪士郎、吹雪アツヤ)、『文豪ストレイドッグス』(太宰治)、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(マリオ)などがある[20][21][22]。 来歴生い立ち幼稚園時代から人前で表現することを好み、テレビが好きであったこともあり「この世界に行きたい」と夢見る[23]。幼稚園のお遊戯会で忍者役を演じた際、周囲の子は皆普通にでんぐり返しをしている中、宮野だけ「忍者としてやらなくては」と印を結んだまま手を使わずにでんぐり返しをした[24]。その翌年の猫役においても皆は猫の衣装を着るだけで普通に立って芝居をしていたが、宮野だけは舞台が終わるまで四つん這いで猫になりきって演じていたという[24]。3、4歳の頃から「演じる」ということは「突き詰めることだ」と、どこかで思っていたのかもしれないという[24]。 声優・俳優活動先に劇団に入った兄の影響により、1990年の7歳から劇団ひまわりに所属する[13][14][16][23][25][26][27][28][29][30]。両親は「自分が今やっていることが好きなら続けなさい」と自由にしてくれていた[24]。小・中学校の頃は真面目にレッスンに通うような子供ではなく、習い事の延長線上だったと語る[13]。初仕事は小学1年生のときに出演した西友のCM『西友大市』[17]。初めて参加した本公演はチャールズ・ディケンズ作の『クリスマス・キャロル』[31]。小学5年生のときに初めての大舞台として、劇団ひまわりの本公演『スクルージ』のピーター・クラチット役で高く評価されたことが役者人生において大きな転機になった[24][31]。当時、レッスンをさぼりがちだったが、本公演に参加したり、エキストラの仕事には行っていた[24]。そういう環境に身を置いていたため、「なんとなく僕は役者になるんだ」と、この頃から思っていたのかもしれないという[24]。 他の職業を考えることはなかったが、役者に対しての考え方は高校生の時に大きく変わった気がしたという[24]。周囲の友人たちが大学に進学、就職と進路に対して真剣に悩んだり迷ったりしている姿を見て「“役者になりたい”という夢に対して、自分は今までどんな努力をしてきたんだろう」と改めて考え、「実は積極的には何もしていないのではないか」と考え、「やっぱり役者になりたい」と真剣に向き合うようになった[17]。以降、ダンスや歌など、劇団のレッスンにも高校生活と両立しながら積極的に通うようになった[17][23][32]。 役者の道を選んだことについて両親は「本当に自分にとって必要で、その道で生きていかなくてはならないのか、よく考えなさい」と言ってくれたという[31]。当時、一時的に「他の子とは違うんだぜ」という根拠のない自信があった[23]。しかし周囲には子役として活躍する同期もおり次々と大役が決まっていったが、オーディションに受からなかった[23][28]。全然上手くいかず、「僕は全然ダメだ」、「辞めた方がいいのかな」、「なんで自分はダメなんだろう」といったまで高校生になる頃には、フラストレーションなど劣等感をため込んでいたという[12][23][28][29][30][32][33]。当時、目標としていた俳優は、当時、オーディションが苦手で、自己紹介の時に、「尊敬する俳優は?」と聞かれ、あまりよく知らなかったが、偶々印象に残っていた長塚京三と松嶋菜々子と答えていた[31]。その時にドラマで2人が共演していた作品があったようで「この作品は見ているのかな?」と聞かれてしまい、そんなことも無知で、思い切り墓穴を掘ってしまったという[31]。 兄は責任感の強いタイプだったため、劇団と部活動の両立をせず、部活1本に絞ったが、宮野はその間をかいくぐって、両方続けていた[31]。当時は欲張りで、2009年時点でもそういう部分があり、「あれもこれもやってみたい」と思い、役者を楽しんでしているが、歌も好きで、ダンスも好きで、高校時代も、劇団の仕事も部活も、学校行事も好きという状態で、好きなものを一つに絞れなかったという[31]。しかし、「それがいいか悪いかは、自分次第だ」と思い、役者をしていく中で、歌、ダンスに挑戦してきたことは「間違っていなかった」と思ったことから、「最終的に自分がどう形にできるかの問題だ」と語る[31]。 小学校、中学時代の劇団のレッスンは演技、歌唱のレッスンがメインだったという[31]。積極的にレッスンを受けるようになってから、新しく気付いたことは歌を歌うこと一つにおいても、「技術は必要だ」ということだった[34]。歌、ダンスは初心者レベルからレッスンを受け始めたため、当初は呼吸するものが多く、その成果を感じることができ、楽しく、知らなものを教えてくれて、知っていくということが楽しく仕方なかったという[34]。演技、表現に関しても、そういう不確かさに対するもどかしさは、「どれが正解なんだろう」と常にあった[34]。その頃は、演技の上手い下手というのが分からなかったため、同世代で活躍している人物がいると、「自分に足りないものは何なのだろう」と考えて、悩み、余計に分からなくなることもあった[34]。それで、逆に「技術として身に付けられることは習得しなければいけないな」と考えられるようになり、声楽の声の出し方、ダンスなど、「努力すれば身になることはどんどん学ぼう」と思った[34]。その時は演じることについて悩み、オーディションで与えられた役を演じる時に、無理に個性を作ろうなど、自分の色を出そうとしても審査の人物には見透かされてしまうものだった[34]。その時に「どうやったら印象に残るだろうか」、「目立たなくては」と考えれば考えるほど上手くいかず、空回りばかりしていたこともあった[34]。この時期は、技術面の充実に力を入れるようになった[34]。劇団のレッスンに参加するようになると、マネージャーにも見てくれるようになり、劇団内の知り合いも増え、それ以上にそういった人物たちと触れ合うことで学んだことが多かったように思った[34]。劇団でも後述のサッカー部のような素敵な人間関係があった[34]。当時はオーディションで選ばれたメンバーだけで構成された歌とダンスの特別クラスに入っていたが、選抜クラスのため、メンバーは本気で役者を目指していた人物ばかりで明確に目指すものがある人物たちと真剣にレッスンを受けることができ、幸せだったと語る[34]。その頃、劇団ひまわりが定期的に行っていた歌のイベントに参加できたのも勉強になり、人前に立って歌ったりすることの楽しさを知った気がしていたという[34]。 中高生時代は『3年B組金八先生』の生徒役[35]や、 『ニュースの女』で滝沢秀明が演じる北原龍のチームメイト役として友情劇を演じるなど、テレビドラマに出演。少々頑張ったくらいでうまくいくわけではないが、状況はなかなか変わらなかった[23]。一方、中学時代まではそれでも「何となくよかった」と言っているが、高校に進学後、めちゃくちゃ焦っていた[28]。舞台をしてもちょい役で、テレビに出演してもエキストラだったりなどしていたことから「ああ、これはヤバいな」と感覚的には「売れ残り」と子役と言うには難しい年齢に差し掛かり、今後の進路に焦りを覚えていた[4][28]。 高校卒業が近づき友人は次々に進路が決まり、当時は悩んでいた時期だったため、焦って違う道を考えて、子役時代に大きく挫折していたことを打ち明けて、教師に「今からでも進学って大丈夫ですか?」と聞いたところ「えっ、今から!?」、「じゃどうするの?」と驚かれた[12][23]。そんな高校3年生の18歳の時に、当時のマネージャーに「ちょっと声優のお仕事があるんだけど、オーディション受けてみない?」と言われ、「もちろんやります!」と言って[4][12][27][36][28][29][30]、NHK教育の海外ドラマ『私はケイトリン』のオーディションに合格し声優としてデビュー[13][14][15]。後述の通り、アニメが好きで普通に視聴者として楽しんでいたため、オーディションの時に「自分もテレビの中に入れるのかな」とワクワクしてしまったという[13]。それまで職業としての声優は無知であった[26]。前述の通り、子役としてキャリアを始めて、挫折を経験するのが早かったこともあり、声優の仕事に出会えなかったら、「芸能人生が終わっていたかもしれません」と回想している[32]。1話のオンエアを観ていた時に下手くそすぎて幻滅して、落胆していた[28]。しかし先輩の背中を見ながら必死で覚え、海外の俳優が演じていた役に自身の声が合わさっていた際、「俺、こんな声出せるんだ」というのが見つかった[28]。声優の面白さを初めて味わい、色々な技術が磨かれていき、18歳で初めてのレギュラーだったことからうれしく一生懸命していたところ繋がっていたという[27][28]。あの時、声優の仕事が決まらなかったら別の道に進んでいたかもしれず、母は、その間も応援してくれていたという[23]。その後声優の仕事が来るようになり、PlayStation 2用ゲーム『キングダム ハーツ』のリク役で注目を集める。 その一方で高校卒業後、不安で、怖く仕事がそんなにたくさんあるわけではなかった[37]。それで生活できるはずもなかったことから高校時代のように学校へ行く必要もないため、お金はないが時間だけはたくさんある日々であった[37][38]。大事なことは「今、自分にできることは、いただいたお仕事をしっかりこなすこと」、「空いている時間でアルバイトをしながらたくさんレッスンを受けて、いかに分を磨くか」だと思った[38]。「より意識の高い、プロフェッショナルを目指す人たちの中で自分を磨きたい」と思い、劇団ひまわりの全日制クラスに入ってダンスや歌のレッスンを受け始め、後の歌手としてのスタイルに近い音楽と出会う[38][36]。 さらに2006年 - 2007年放送の『DEATH NOTE』の夜神月役で声優としての知名度を上げ[5][7][29]、2008年には声優アワードなどを受賞した[39]。 また声優の仕事が多くなってからも並行して実写映画やテレビドラマに出演[30]。2010年公開の『Wonderful World』では映画初主演を務めた[40]。 ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』のトニー役でミュージカル初主演を務めたが、10代の頃に映画版を見たことがあり、ミュージカル初主演でトニー役を演じるとは思っていなかったため、最初は戸惑いもあったという[14]。 2023年1月26日に放送された『ぐるぐるナインティナイン』の名物コーナー、「グルメチキンレース・ゴチになります!24」(以下、「ゴチ」と表記)のメンバーとしてレギュラー出演することが発表された。メンバーカラーは紫。声優が「ゴチ」のレギュラーとして出演することは初の出来事となった[8][注 1]。しかし、12月28日に放送されたゴチバトル最終戦の結果を以てクビ(降板)が決定、1年間のみの参戦となってしまった[41]。 歌手活動2006年10月から2007年3月まで放送された『ときめきメモリアル Only Love』で斉藤一美と出会い、2007年に『鋼鉄三国志』のエンディングテーマ「久遠」を歌うことになる。斉藤は当時、宮野に対し「ついに新世代の声優が現れた」と感じていたという。その人物は「一緒に歌をやってみないか」と誘い、宮野の歌に対する姿勢、気持ちを理解していた[42]。その時に宮野は最初の曲選びの時点から参加して音楽をしていく楽しさを感じさせてくれたという[42]。その「久遠」がきっかけで三嶋章夫に名前を知られ、水樹奈々のあと押しもあり、キングレコードのVC制作部MMグループ(現:KACアーティストプロデュース本部)からのデビューが決定。声優と並行して本格的にアーティストとしての活動を開始する。 単独ライブを開催していた時は、母は「自分の子じゃないみたい!」と喜んでくれて、2020年時点でも母は、ライブ、舞台がある時は必ず足を運んでくれるという[23]。 2011年ころからは次第にオリコンチャートの上位になるようになり、2015年には12枚目のシングル「シャイン」で4月18日付のオリコンシングルデイリーランキング1位を獲得。声優個人名義での1位獲得は水樹奈々以来の2人目で、男性声優では史上初の快挙となった[43](詳細は『#ディスコグラフィ』を参照)。さらに2016年には、2枚同時シングルリリースした「テンペスト」および「The Birth」が、10月24日付オリコン週間ランキングでそれぞれ初登場5位、9位を獲得。清木場俊介以来9年3か月ぶりに男性ソロによるシングル2作TOP10入りを果たす[44]。 2009年4月11日 - 28日、自身初の単独ライブ「MAMORU MIYANO 1st LIVE TOUR 2009 〜BREAKING!〜」を開催。同年5月16日、新人アーティストが出演するライブイベント「oricon Sound Blowin'2009〜spring〜」に参加。同年8月22日には、国内最大のアニメソングライブイベント、「Animelo Summer Live 2009 -RE:BRIDGE-」に初参加する。2013年10月4日には、男性声優のソロ公演としては初となる日本武道館公演「MAMORU MIYANO SPECIAL LIVE 2013 〜TRAVELING!〜」を行い[注 2]、1万人を動員した[45]。その後も、武道館のような大きな会場でライブを開催している(詳細は『#ライブ・イベント』を参照)。このライブ映像を収録したBlu-rayの内、2015年1月28日発売の「MAMORU MIYANO LIVE TOUR 2014 〜WAKENING!〜」は2月9日付オリコン週間BDランキングで総合2位、音楽部門で1位を獲得しており、男性声優の作品としての最高売り上げを記録している[46]。 人物特色キャラクターの演じ分け、自分自身の切り替えはどんなギアにでも変化させられるように、いつでもニュートラルにしておくようにしているという[47]。スイッチのように切り替えられる感覚を持っていないと、「難しい仕事だ」と思い、ニュートラルな状態に保つためにも、芝居を見返すというのは「大切なことだ」と語る[47]。 役柄としては、王子様キャラ[48]や正統派イケメンやひょうきんでコミカルな役から闇のあるクセの強いキャラまでたくさんの役を演じてきたが[30]、2009年時点でその役に選ばれる理由は自分に特別な何かがあるかどうかは、分からないという[49]。ただし、その時、自分にできるベストを尽くそうとはいつも思っている[49]。それを認めてくれるのは、嬉しいことで、「そういう気持ちが伝わっているのかな」、「これからも手を抜かずに、今自分にできる最大限のことに挑戦していけば、みなさんにたくさん作品を見ていただける機会も増えるのではないかな」と語る[49]。 仕事で課題に直面していた時は、ひたすら努力しており次の台本をくれた時に、前回指摘されたこと、気付いたことを反映できるか、考えている[38]。一番の復習は、自分の出演作品のオンエアを見て、自分がどんな声を出しているかをちゃんと確認することだと語る[38]。2009年時点でもこの作業は、必ずしているという[38]。収録中、現場では、客観的に自分を見ることができず、鮮明に全部覚えているわけでもなく完成品を見て「自分がお客さんだったらどう思うだろう」と反省し、次へつなげていかなければ、向上できないと語る[38]。昔は、自分の作品を繰り消し繰り返し見直していたという[38]。 自分が組み立てていったものに凝り固まっていると、求められている演出を聞き逃してしまうことがあり、捨てられる柔軟性を持ち、演出に対応できる余裕を持つようにしている[47]。1人で練りこんでいく作業は、あくまで自分の想像の範囲内のことしかできず相手のセリフも、間も想像できず一度練りあげた役を捨て去ることの必要性に気付いた[47]。練りこむ作業は現場に行っていた時に、自信を持ち演じるためには絶対に必要なことで練りあげたものは自分の中にどこかしらに残り安心できるという[47]。 仕事をする上で気をつけていること、心がけていることは子供の頃から「役を演じる」ということはしていたが、舞台でする芝居とは違い、アニメは物語があり、監督、音響監督がおり現場の皆でキャラクターを作っていくものであることを、声優になり気付かされていた[42][50]。宮野は「こういう人生を歩んできたキャラクターなんだ」ということを読み込み、作り込んでいくわけだが、キャラクターを描き、動きをつけてくれるアニメーターたちは皆で力を合わせて作り上げていき、自分自身のポリシーはしっかりと持ち、役に対して「こういう表現をしたい」「自分だからこその表現を注ぎ込みたい」という思いを持った[50]。その上で挑むことで、スタッフとの支え合い、相乗効果によっていいものが生まれてきて、「そういう世界だな」と思った[50]。役の人生を「僕が演じる」のではなく「生きる」という思いになり、「役の人生を生きたい」と、強く思った[50]。演じる前から、キャラクターは既に素敵な芝居をして、素敵な表情を見せてくれているため作品の一員になれるよう、心がけているという[42]。 何か体調を維持するコツなどは人並みにケアはしているが、特別なことはしておらず乾燥する季節ならマスクで保湿、自分に合ったのど飴を持っておくことで安心していたりしているという[50]。 2021年時点ではオンエアで自分の声を聞くのは得意ではないが、たまに自分でも「今のはよかったな」と思える瞬間があった[51]。同時に「自分の声が特別だ」と思っておらず、声優デビュー後はどうして声優の仕事で求めてくれるのか全然分からなかった[32]。仕事をくれることが嬉しく、とにかくがむしゃらにするしかなく、声優の仕事だけで食べていけるほどではなかった[32]。しかし「やっていけるかもしれない」という足掛かりをくれて、進学をせず、就職もせず、アルバイトで食いつなぎながらここまできたという[32]。 声優のみならずテレビドラマ、バラエティ番組、歌、舞台など多方面で活動しているが、「全然違和感がなくて、元々やりたいことではあった」と語っている[28]。 ラジオなどでも活躍しており、2009年時点では楽しむ余裕が出てきたが、始めた頃は毎回大変であった[47]。初めはどうしていいか分からず1人で頑張ってしまい、空回りばかりしていた時期もあったという[49]。 あらゆるジャンルの表現作品に携わる過程で、自然と分析力が身についてきたが、一番磨かれたのは声優の仕事だった[52]。テレビドラマや舞台と比べると、アニメの収録は短いスパンで行われており、現場でゆっくりと突き詰めている余裕がないことから、自分自身でとことん準備してから臨んできた[52]。そうしないとなんとなく仕事をこなしていることになり、それではかっこ悪いといい、2021年のインタビューによると、あぐらをかいているつもりはなく、毎回、貰った仕事に全力で向き合っていると語る[52]。 どんな意気込みでキャリアを切り開いていったことについては、「あれがやりたい」、「これは嫌だ」と選り好みするよりも、「まずは目の前にある仕事を突き詰めることが大事だ」と語る[53]。同時に自分の状況を分析して突き詰めることで可能性が広がっていくはずだとも語っている[53]。 出演作について声優デビュー時はアテレコ現場でマイクを前に演技をするのは初めてで、『私はケイトリン』のディレクターに声優としての技術を教わった[37]。これについては、1年間現場でいい経験ができたと振り返っている[37]。この役に受かった理由は役に合うと思ってくれたのか、声質だったのか、自分では分からないという[37]。ただし、素人同然の宮野に目を向けてくれて、ちゃんと導いてくれたことは幸運であったと語る[37]。 声優デビュー後も色々な話が来るようになり、「じゃあまたミュージカルをやってみよう」となり、オーディション受けて決まった『ミュージカル・テニスの王子様』に出演[27][30][54]。このミュージカルに出演して、「やっぱり演じることは楽しい、演じ続けたい」、と改めて感じるようになった[37]。この作品のおかげで、他に出演していた芝居、イベントに来てくれる人物が増えて幅が広がったように感じていた[37]。レッスンを受けながら、声の仕事、発表会などで舞台に立つ機会もあったが、大きなミュージカルの舞台に参加することができたことは、とても嬉しかったという[37]。 当時は人気がある役者も多く、「うまくいかないな」という思いもありながら「また勉強をし直さないと。技術とかをもう1回、磨かないと」、「初心に戻って、新たな挑戦として取り組もう」と思ったという[54][37]。その時は20歳を超えていたことから劇団のレッスンとしては卒業に近いところにいたが、再び1年間、全日制のクラスに入り、勉強をし直した[54]。出会った演劇の講師が海外のやり方を取り入れてもらい、芝居をする上でのターニングポイントになったという[54]。 原作の『DEATH NOTE』のファンであり[55]、オーディションでは、どうしても演じたいという思いが強く、合格するのは難しいということもよく分かっていたが「絶対に受かるんだ」という気持ちでオーディションに臨んだという[38]。オーディションの時、原作と照らし合わせて、可能な限りこと細かくプランニングし、自己演出をして納得がいくまで練習して行くことができるようになるまでには、かなり時間がかかった[38][47]。『DEATH NOTE』のオーディションに合格した時は驚き、作品のメジャーさも「もちろんある」と語るが、急に親戚が増える体験をしており、突然友人からメールが来るようになったり、「ビッグタイトルなんだ!」と実感していた[47]。同時に、責任も重大だったことからプレッシャーは大きく、毎回毎回つぶされないように必死だった[47]。ただし、「その重圧を現場には持ち込まないようにしよう」と思い、「家に帰ったらプレッシャーで凹んでもいいから、現場にだけは絶対に持ち込まず、自信を持って演じよう」とそうでないと演じきれない役だったと語る[47]。 声優という仕事を再認識するきっかけになったのが『DEATH NOTE』の夜神月を演じたことで、声優の仕事は「キャラクターを演じるのではなく、生きるんだ」と気付かされた[42]。月は歴史に残るようなダークヒーローではあったが、確固たる信念を持って生きており、「彼の考え方や価値観、正義感を信じ、彼の人生を生きるつもりで演じよう」と自然に気持ちの上でもシンクロしていた[42]。月の死が、シンクロしすぎて「そのシーンを終えたら、僕は月と一緒に死んでしまうんじゃないか」という得体のしれない恐怖心に襲われていたという[42]。ただしずっとシンクロしてしまうと、今度は別のキャラを演じるときの切り替えが難しくなるため、ギアを切り替えるような感じでキャラクターを引きずりすぎないようにも心がけているという[42]。 『DEATH NOTE』では、山口勝平が演じていたLと宮野が演じていた夜神月が絡むことが多かった[47]。Lは、何を投げかけてくるか分からない自由な演技であったため、そこで生まれるライブ感の方が、「自分が練りこんできたものよりも大事だな」、とそのライブ感に乗り、そこでまた作品を作りだしていくのが芝居だと語る[47]。『DEATH NOTE』はセリフ劇であったため、やりとりで毎回芝居が変わり逆にそれができないと、「あの世界にはいられなかった」と語り、それも、現場で学んだことの一つであったという[47]。前述の通り、子供の頃はうまくいかなかったため「どうやったら売れるのかな」と思っており、2024年時点では職業としての声優に救われた気がしていた[12]。『DEATH NOTE』に出演していた時に、「ちょっと売れたなぁ」と思ったという[12]。 『機動戦士ガンダム00』では主人公、刹那・F・セイエイ役を演じていたが、『DEATH NOTE』は、原作を読み込み最後まで夜神月の気持ちを追及していったが、『機動戦士ガンダム00』はオリジナルのため、それができず、「いかに監督とたくさんディスカッションできるかが大事だ」と考えていた[47]。放送前からイベントがたくさんあったため、空き時間に監督と話をする機会を多く持つことができて助かり、アニメの中では表現されることのないキャラクターの設定、生い立ちを、監督とディスカッションしながら教えてくれたという[47]。 刹那役はオーディションに決められ、監督の水島精二曰く、オーディション時に来ていた声優の中で「いかにもガンダムの主人公」という匂いが強くなく、刹那に求めていた孤独な感じをごく自然に演じたことで選ばれた[56]。イメージよりは大人びてはいるが、最初からシリーズ中盤で年をとるということも考慮に入れられた上で決まったという[56]。音響監督の三間雅文曰く、「以前『蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT』の主役を演じたときにも感じた感情表現の不器用さや、繊細さによる演技のブレが刹那の役柄にぴったりである」ということで選ばれた[56]。一番印象に残っている台詞は「俺がガンダムだ」[57]。この言葉から刹那のガンダムに神を見た想いを感じ、物語の中でこの台詞が「ガンダムになれない」「今度こそ、ガンダムに…!」「俺たちが、ガンダムだ!」という台詞の変化で刹那の成長が見られる物語の一連の流れも強く印象に残っているという[57]。 ミュージカル『ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド』ではディオ・ブランドー役を演じているが、それ以前には、テレビアニメ『ジョジョの奇妙な冒険』でのディオ・ブランドー役のオーディションを受けていたものの、落選[33][58]。宮野自身は、前述のテレビアニメ版のディオ役のオーディションを受けていたこともあったほどディオへの思いは強く、同ミュージカルでディオを演じることになったことについては光栄に思っていたという[33]。ディオを演じるにあたりテレビアニメ版でのディオ役を演じていた子安武人の芝居も研究していた[33]。どうやっても子安の域にたどり着くことはできないが、それに気付くことで自分にフィードバックでき、こういう役づくりは初めてだったという[33]。 趣味・特技プライベートはインドア派である[51]。 学生時代はサッカー部に所属し[59]、好きなJリーグクラブに地元埼玉の浦和レッズを挙げている。 当時のポジションは、右サイドベンチを温めており、出場する時は右サイドハーフであった[17]。その時はほとんど控え、体力があまりなく、使えなかったのだと語り、サッカーは好きだったという[17]。部活動と劇団の両立は大変で、部活の皆にも、親にも迷惑をかけていたと語る[17]。それでも、わがままながら、両方続けてきた価値は大きく、特に高校のサッカー部ではいい仲間に巡り会えて、最高のメンバーと同じ時を過ごせたのは、最高の財産だと語る[17]。 試合の日に劇団での活動があり、部活動、合宿に参加できないことがあった[17]。そういうことが続くと、だんだん申し訳なくなってしまい、監督に「みんなに迷惑がかかるので辞めた方がいいのではないか」と相談したこともった[17]。その時、監督が「ここまでやってきたんだから、最後まで一緒にやろう」と言ってくれてとても嬉しく「本当に恵まれた環境に自分は居られたんだな」と感じていた[17]。このことを人間として成長することができる体験を、たくさん与えてくれた高校生活だったという[17]。 テレビっ子だったこともあり、志村けんのお笑い番組が好きだったという[25]。子供の頃から『ウンジャラゲ』をしていた[60]。叔父の結婚式で兄と一緒に『志村けんのだいじょうぶだぁ』の踊りを一心不乱に踊りまくったこともあったという[24]。元々目立ちたがり屋なところがあると語る[24]。しかしやる前は緊張してしまうタイプなため、その時もナーバスになっており、「やるのが嫌だ」と駄々をこねていたという[24]。本番が始まったみたところ、はじけてしまっており、本番になると、何かスイッチが入ってしまうようだという[24]。2009年時点でもそういうところは残っており、本番前は「もう帰ってしまおう」と思うくらい緊張するという[24]。舞台に立つとパチンとスイッチが入り、思い切り楽しんでしまい、そういう部分は、変わっていないのかもしれないという[24]。数々のアニメ作品やミュージカルやアーティスト活動を通し、キラキラの王子様を体現しており、イタリアが誇るビッグメゾンのスーツも帝王のようなオーラでサラリと着れるという[48]。しかし、宮野自身は志村を見て育ったため、王子様でも帝王でもなく、「変なおじさん」と自称している[48]。深夜のお笑い番組も好きだという[61]。少し酒を飲み、笑う準備を整えてからテレビをつけてる[61]。宮野にとってはすごく大事な時間で笑うこと以上に効果的な健康法はないのではないかと語る[61]。宮野自身は黄色い歓声も欲しいと語るが、一番求めているのは人の笑い声だった[61]。人に笑ってもらえると自分が認められた気がして安心している[61]。元々不安で怖がりだったことからそう思うかもしれないが、ライブでもお笑い要素をぶち込んでしまうという[61]。芸人がしているように皆に楽しんでもらえると嬉しいという[61]。 漫画、アニメ、ゲームも好きで、子供の頃、最新のスーパーファミコンのソフトを1個買うか、中古のファミコンのソフトを3つ買うかで悩み、中古を買ったことがあった[25]。その時はコレクター気質だったが、その後は使える時間が限られているため、一点集中型で、ゲームも、決まったものをひたすらしており、やり始めるとやめられなくなってしまうタイプでもあるという[25]。 歌うことは好きで、10代、20代の頃は前述のとおり前向きにレッスンを受けていた[14]。カラオケも好きで、平井堅、CHEMISTRYの曲に影響を受けて音楽活動にも生きており、非常にありがたいという[14]。 子供の頃はヒーローソング、アニソンが好きで小学6年生あたりになると小室ファミリーを聴き始めて、globeが好きであった[42]。中学進学後はゆずに熱中して、小遣いでハーモニカ買いゆずの真似事をしてみたり、物置にあった父のギターを引っ張りだして弾いてみたり中学の後半あたりではバンド系も聴くようになったという[42]。 高校に進学後はラウドロック、パンクなどを聴き始めて、友人とコピーバンドをして文化祭で披露したりしていた[42]。その後、ダンスミュージック、R&Bに出会いそっちの方向に惹かれていき2012年時点ではK-POPが好きだという[42]。 一時期は、体を大きくするためだけの筋トレに熱中していた時期があり、あの頃は服のサイズが合わなかったという[48]。2021年時点ではジムに通うのがなかなか難しい状況のため、自宅で腕立て伏せをしており、ノルマは90回だという[48]。 家族・交友関係実家は豆腐屋[50]。母は美容師で2005年時点では美容室を経営していた[62]。兄[13][23]と妹[13][63]がいる。兄は俳優の宮野翔太[11][64]。 2023年12月20日、6月に離婚していたことが公式サイトで発表[2][65]。理由は新型コロナウイルスの流行の直前に多忙のためにすれ違いが生じ、長い別居生活を始め、「彼はアパートに泊まる暮らしでした」と元妻が明かした[66]。 『ミュージカル・テニスの王子様』で共演した髙木俊とは2005年より「SMILY☆SPIKY」という舞台ユニットを結成し、コントライブを主とした活動も行う[67]。 歌手活動においてはデビューのきっかけを作った水樹奈々の存在がとても大きいと語り、姉のように慕っている。 普段世話になっている先輩に鈴村健一の名前を挙げており、「愚痴や相談を聞いてもらっている」とインタビューで答えている。 神谷浩史とは、宮野にとってはお兄ちゃん的な存在で、色々とお世話になっており、イベントやキャンペーンで一緒に地方を回るなど、アフレコ以外でも一緒になったこともあるという[68]。 同じ劇団に所属していた入野自由とは色々な作品で共演している[68]。 エピソード小学校時代はアニメが好きな子供であり、テレビアニメ『ドラゴンボール』が好きで主人公の孫悟空になりたかったという[31]。しかし当時は職業としての声優は意識しておらず、悟空は悟空、クリリンはクリリンとしてしか見ていなかった[31]。将来、自分がアニメの声優をするようになるとは思っていなかったという[31]。子供心に声優について感じてたのは「悟空と悟飯が一緒の声だ! すげえ!」くらいであった[13]。『ドラゴンボール』自体は子供の頃から夢中で、物心がついてから再放送のテレビアニメ『ドラゴンボール』を楽しく観ており、ビデオテープに録画もして、何度も繰り返し観ていた[68]。その後は『ドラゴンボールZ』を観ながら、原作も読むようになり、コミックスも購入していた[68]。2022年にはアニメ映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』のガンマ2号役を演じた[68]。 小・中学生の頃はゴールデンタイムに『週刊少年ジャンプ』の連載漫画原作のアニメにをたくさん放送しており、『ドラゴンボール』、『幽☆遊☆白書』、『SLAM DUNK』、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 』など好きでよく観ており、妹と『美少女戦士セーラームーン』なども普通に観ていた[13]。 その頃、劇団に何となく入団してしまったこともあり、劇団はさぼりがちだった[24]。小学校での生活が中心の普通の小学生で、あまり積極的にレッスンに通わなかった[24]。 学生時代は高校デビューに近く、小中時代も明るかったが、家に帰ると1人であった[4]。友人に誘われたい待ちをして、誘われない人物であった[4]。その時は誘われくカリスマになりたかったことから子供の頃、「カリスマって自分から声かけないじゃん」と勝手に思っていた[4]。 誘われる人物がおり、羨ましく「なんであの子は誘われるんだろう?」と思い、授業中、レクリエーションなど、張り切っていた[4]。目立つようにしてアピールをしていたが、放課後は誰も来なかった[4]。 少し待っててしまい、高校時代、そんなのが関係なくなり、前述の通り、サッカー部だったため、仲いい友人ができた[4]。 劇団に所属していたため、とにかく目立ちたく、文化祭、体育祭など、何かしらしており、高校時代の体育祭の時は応援団の団長になった[4][26]。チームごとに色分けがあり自分たちはピンクだったため、ピンク・レディーを踊り、『ペッパー警部』を使わせてくれて自分のオリジナルの動きを入れたものを作った[26]。後輩にも「やれ」と命令して、「絶対1位獲れるから」と自信満々であったが、結局はビリから2番目で「皆ごめんな。1位取れると思ったのに」と号泣していたという[26]。 その時、先頭に立ち動いている自分がおり、「どんな場面でも自分を表現するのがとにかく好きなんだ」と、改めて感じたりもしていた[17]。宮野曰く高校生活は、色々悩み、考え、行動していた時代であったという[17]。 人気者になりたくカリスマになりたくその気持ちは2022年時点でも変わってないという[4]。しかし高校生になり色々アピールすると、伴ってちゃんと見てくれてのちに人気者になったと語っている[4]。 劇団ひまわりの全日制クラス時代はクラスを辞める者が続出するほどレッスンが厳しく、また書店員のアルバイトとの掛け持ちだったためきつかったと語っている[38]。 声優としてデビューした後、共演してうれしかった人物はたくさんいるが田中真弓に会った時はやばかった[13]。2012年時点ではアニメの仕事ではまだ共演したことがないが、『ONE PIECE』が好きだと言い続けていたため、ラジオのスタッフが内緒で田中をゲストに呼んでくれた[13]。その時にスタジオに入ったところ田中がルフィの麦わら帽子をかぶり「よう!」と言っており、宮野は緊張して何も喋れなくなってしまった[13]。 宮野は勇気を振り絞り「僕は『ONE PIECE』が好きなんですけど、『ドラゴンボール』も大好きでずっと観てたんです!」と言っていた[13]。その時に田中がクリリンとルフィのコラボである「ゴムゴムの気円斬」をしてくれて「ワーッ!」と真っ二つにされたような贅沢な時間であったという[13]。 数々の作品でイケメンキャラを演じてきたが、宮野にとって、「イケてる男」の定義については、「ちゃんと分析できている人」と語る[52]。自分の状況や求められていることを深く理解して、より良い結果を出せるように努めているといい、そういう人物と一緒の現場は楽しく、1人の男として気づかされることも多かったりしているという[52]。 前述の通り、子役として活動していたこともあり、最初に声優は目指したものではなかったが、声優として活動をしていくにつれて、楽しさをしっかり見つけていくことにより、そこに夢があることに気づいたという[53]。 前述の通り、10代の頃は子役としてうまくいかず、大きな挫折を経験していたが、その時の劣等感をハングリー精神に変えて頑張ってきたからこそ、2024年時点の宮野自身があると語る[33]。 2021年9月に行われ、300人が投票に参加した「好きな男性声優ランキング」では1位を獲得した[69]。 大切な言葉としては、「Laugh&Peace」を挙げているが、この言葉の出発点は、前述の子役時代の劣等感だったという[29]。 受賞歴
出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム
ドラマCD
朗読・トークCD
吹き替え担当俳優
映画
ドラマ
アニメ
デジタルコミック特撮
ラジオ※はインターネット配信。
ラジオCD
ナレーション
CM
テレビドラマ
Webドラマ実写映画
舞台・ミュージカル
テレビ番組
映像商品
玩具
パチンコ・パチスロ
その他コンテンツ
ディスコグラフィ→SMILY☆SPIKYでの活動については「SMILY☆SPIKY」を参照
シングル
アルバム
配信楽曲
タイアップ曲
映像作品
キャラクターソング
その他参加作品
ライブ・イベントワンマンライブ
合同ライブ
イベント
書籍アーティストブック
写真集
雑誌連載
関連書籍
脚注注釈シリーズ一覧
ユニットメンバー
出典
外部リンク
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