能登麻美子
能登 麻美子(のと まみこ、1980年2月6日[1][8][9] - )は、日本の声優、歌手、ナレーター[5]、女優。石川県[9]金沢市出身[3]。大沢事務所所属[6]。既婚。 来歴生い立ち1980年[10]生まれ[3]。音楽プロデューサーの中田ヤスタカとは、同じ生年月日の同郷人である[11][12]。また、「劇団、本谷有希子」を主宰する本谷有希子とは同郷の友人で、地元時代は同じ劇団に所属していたことがある[注 1][13]。 幼い頃から小学校低学年までおままごとで母、学校ごっこで教師になるなど、年の離れた弟と、基地ごっこして役割を決めて遊んだり自分ではないものになることを楽しんでおり、ごっこ遊びが好きであった[14]。しかし内向的な性格だったため、好きな遊びは空想だったかもしれないといい、ひとり遊びも全然苦にならない子供だった[14]。 また、本を読むことも好きだったため、ごっこ遊びはその延長線上にある感じだったというが[14]、アイドル、アニメなどのキャラクターなどに憧れて真似をするようなことはなかった[14]。幼い頃好きだった本は絵本だったり、図書館にあるような児童書だったと語る[14]。 両親も無理に活発な子にさせようとするようなこともなく、わりと自然体に育ててくれたという[14]。 学生時代小学6年生の時に地域密着型の児童劇団に関わっていた学校の教師に誘いを受けて入団し、約1年続けていた[14]。児童劇団には全員で15名前後ぐらいいたが、下は小学4年生ぐらいからで、上は中学1年生ぐらいで児童劇団の中は楽しかったという[15]。 そのときは「みんなの輪の中に入りたい」と思っていたが、中々入れない自分がおり、内向的だというのは自覚していた[14]。ただし、「自分じゃない違う人になれば何でもできるんじゃないかな」とも思った[14][15]。 当時は内向的な自分自身があまり好きではなかったが、児童劇団は、「それを何とかできたら」という手段の一つだったと思っていた[15]。児童劇団では基本的な発声練習、滑舌の練習もあり、ちょっとした設定を決めたエチュードのようなものもあり、公演がある場合には台本読みもしていたが、ただ遊んでいる時もあった[15]。ただのその遊びが結果的には芝居にきちんとつながっており、このことはシアターゲームのようなものであったかもしれないという[15]。 1992年、金沢市立馬場小学校を卒業後、金沢市立小将町中学校に進学した。 中学校時代は演劇部で活動していた[15]。ただ中学校・高校時代は迷走しており、自分で自分に折り合いが付かず自分以外の他者との折り合いもぎこちなく自分の居場所のようなものを探しており、児童劇団にいた頃は多少開放できたりしていたのかもしれないが、それ以降は、演技が自分から離れてしまっており、その時点での職業選択ということには結び付かなかったという[16]。 中学生の時は友人は能登自身と似たタイプが多かったとし、決して友人の数は多くはないが、2009年時点でも繋がっている友人もいる[16]。その頃は迷っていた時期で、その時に「どうしてこういういろんなことが難しいんだろう」、「とにかく生きて行くって、とても難しいことなんだな」と思っていたが特に人間関係、人との関わり方に悩んでおり、当時も自分自身のことを否定的にとらえていたため、「どうして私はいろんなことができないんだろう」、「どうしてみんなと楽しめないんだろう」、「どうして明るくなれないんだろう」と色々なことを悩んでおり、もっともっと限られた世界の中にいると感じていたんだ」と思い、家庭、仲間に守られているが「その世界が私の全てだったと思い込んでいたんだ」とし、閉塞感、逃げ場のなさで、一つの人間関係が壊れるのがとても怖いと感じていたという[15]。そこにしがみついたり、折り合いがつかないことで頭をもたげていたり、悩み事などは自分で抱え、自分で自分をもてあましていたが友人にもあまり相談せず、逃げ場のようなものが必要なため、本を読んだり絵を見ていたという[15]。また出かけられるのは限られた範囲だったが、できるだけ遠くにひとりで出かけたりしていた[16]。あとは普通に友人と遊んだり、ひとりで空想していたりしていた[16]。 1995年、私立女子高の北陸学院高等学校に進学[17][18]。中学が共学であったことから全員女性という環境に興味があり、友人からは「女子高にするの!?」という反応があったが、能登は逆に抵抗はなかったという[16]。高校の選択は単純明快で「今の学力で行けるところはどこだろう?」といった感じだった[16]。 高校でも演劇部に入部していたが、上下関係の厳しさを痛感させられ、演劇熱も一時消えてしまった[15]。進学していた頃は楽しんで活動していたが、1年が経つ頃からほとんど活動のない部活になってしまった[15]。その時は能登と同学年の部員は5、6人はいたという[15]。一応3年間は在籍していたが、先輩が恐かったという印象が強かったことからか演劇部で何かをしたというような実感がなく、発表会もあったと思うが記憶にない[15]。一方で学園祭の時に、クラスの出し物とは別に、学年単位の出し物で芝居をしていたが、こちらはとても楽しく、印象に残っている[15]。 高校ではさらに、仲が良かった友人から誘われ、元々花が好きで中学時代から習っていたことから、華道部にも入っていた[16]。 高校2年生からは選択科目で数学を取り、乗り越えなければならない課題として勉強していた[16]。 高校時代は演劇をしたいという気持ちやごっこ遊びも完全に終わっており、高校で進路を決めた時には、「私は看護士になってホスピスで働くか、小児科に行きたい」と考えていた[16]。高校1年生の終わりには、看護士、保育士、福祉関係のいずれかの仕事をしたいと将来が明確になっていき、一番の希望は「命と向き合いたい」と思い、ホスピスで働くことを希望していた[16]。一方で保育士になりたいと思ったきっかけは、高校の1回だけ保育士の手伝いができる授業がとても楽しく、その授業の後も学校の教師に頼み込み、毎週金曜日の放課後だけ手伝いさせてもらえるようにお願いした程だったという[16]。その後通っていた高校は上に付属の短期大学の保育科があったため、「保育士さんでもいいな」と思い、看護学校を受験することと、エスカレーターでもいける付属短期大学の保育科かを決めている[19]。 能登は保育士にも共通することだが、子供も生命エネルギーの塊で「大切なものに触れたかったのだ」と語り、人と接すること、自分との折り合いなどがうまくいかなかったが、保育園の手伝い、そこで子供たちと接する行為は、2009年時点も年寄りと子供には受けが良かったという[16][19]。 高校3年生の秋ごろに、能登演劇堂で仲代達矢が主催する無名塾の舞台公演『いのちぼうにふろう物語』を観て急に「お芝居したい!」と考えるようになった[19]。その舞台には、17歳であった能登が求めていた「ほんとう」があり、舞台上で登場人物が皆死んでしまうが、物語の中で、生きるということの幅の広さなどもとてつもない生のエネルギーの塊を感じていた[19]。その時に「その世界で生きてみたい」という熱が強くなったという[19]。そうしていたところ、心の中が芝居がしたい気持ちでいてもいられなくなってしまい、パンフレットの裏に無名塾の塾生募集記事を見つけた時は、もう「受けよう」と決めていた[19]。その頃ちょうど仲代の妻宮崎恭子が死去していた時で、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられていた無名塾は毎年受験者が多く、1000人に1人しか合格しないというのを知った[19]。もちろん「受ける!」と決めていたことから熱は冷めなかったという[19]。 上京までには少し時間があったため、「それまでにも何とかしたい」と思い、金沢市民芸術村のコミュニティのワークショップに飛び込んでいた[20]。思い立ったらすぐの速攻型であり、思い込むと潜在的には駆け込むタイプで根底では頑固な部分があるため、決めた以上、何も迷いもなかった[20]。 その後金沢の劇団アンゲルスに参加[21]、「お芝居がしたい。絶対にしたい」と一大決心した[19]。 両親には「看護士をやめてやっぱりお芝居がしたい」と話していたが、「お前は馬鹿か!」と怒られ、結局色々話し合いをしていた中で、「学校なら東京に行ってもいい」ということになり、その時点で大学を受けられる時期ではなかったため、専門学校ということで折り合いをつけていたが、親としては「専門学校に行って卒業すればまた戻ってくるだろう」「そしてまた受けなおせばいい」、という思いだったようであった[19]。能登としては上京させてくればこっちのもので「その代わり、出させてもらう以上は親には極力負担をかけたくないし、なるべく専門学校の期間は短い方がいい」と思ったため、その条件で学校を選ぶ[19][20]。 その後、能登としては、「親が安心していられる期間の短い間に、お芝居につながることはできる限りのことは何でもしよう」と思って上京し専門学校に通うことになったが、周囲も当初は能登の両親同様に猛反対で、「受験勉強に疲れたからアホみたいなことを言ってるんだ」という感じであったというが、その後色々話し合い、約束をしつつ許可を出してくれた[20]。最終的には母が背中を押してくれて、「とりあえず行かせてあげよう」ということになったが、友人からも、皆自分の進路のことで大変な時期であったことから「ものすごい進路転換だね」と驚かれてしまった[20]。両親と勉強期間は20歳までという約束をしていたという[22]。 こうして高校卒業後の1998年、代々木アニメーション学院に1年間通う[23]。同期にはものまねタレントでお笑い芸人の山本高広[24]や中村悠一らがいた。寮に入り、少し年上のお姉さんと一緒に相部屋生活をしていた[20]。 学校の授業は1日3時間で「少な過ぎるなぁ」という感じで、上京してからも色々なことをしたくてしたくてたまらず、その欲求を満たすために毎日慌しく過ごしていたが[22]、芝居を観に行ったり、安いワークショップを探したりしていたり、地元金沢で関わらせてもらった演劇関係の人物が東京でも活動していたため、その人物のところで勉強させてもらいに行ったりもしていた[20]。学校で基礎練習をして、先生がくれた課題もしていたが、それだけでは全然足りない気持ちで、もっともっとと欲しており学校、ワークショップ、アルバイト、観劇、友人ととにかくずっと走り回っていた[22]。 学校を卒業したら一番は無名塾に入ることであり、「ダメだったらどこの劇団に行こうかな?」と色々探していた時期だった[22]。 その時、専門学校がスポンサードをしていたラジオ番組に、生徒である能登もアシスタントとして出演させてもらう機会があった[22]。後に所属することになる大沢事務所の先輩だった岩田光央が出演しており、そこに出演したことがきっかけで同事務所から声をかけてもらって研究生として所属となる[22]。このときも能登の中では無名塾、文学座、キャラメルボックスなどの「劇団へ入られたらいいな」と頭は劇団に向いていたが、話を頂いてから色々考え[22]、結局は声をかけてくれたということで「頑張ってみようかな」と思ったのと、同事務所でも芝居をしている人物もおり、「またいろんな出会いがあるだろう」と思ってのことであった[22]。両親の中では劇団というのが一番わけのわからない世界で、そこに娘が関わるのが不安だったようで、同事務所のように仕事をきちんとされているところで勉強させてくれることになったということは、少しは安心できたようであったという[22]。 キャリア初仕事はCMナレーションで、当時は研究生後半頃からCMナレーションの仕事を少しずつさせてくれるようになった[25]。ナレーションの仕事をもらうようになり、「言葉ってなんて魅力的なんだろう」と思うようになった[25]。 その後は言葉を非常に意識し出し、事務所の先輩のナレーションなど色々と注意して聞くようになった[25]。それまでナレーションというものをあまり意識して聞いていなかったが、注意して聞くようになり、真似などをしていたところ、「なんて凄いことなんだろう」と言葉の世界に興味がわいたという[25]。 一方で「演技をしたい」という思いも当然あったため、少しずつアニメの仕事もくれるようになった[25]。 研究生所属から1年後に、大沢事務所への正式所属が決まって仕事をもらい、その魅力に熱中していった[25]。色々な人物とも出会いもあり、アニメにも出演するようになりという感じで、進んで来たという感じだという[25]。 「できないこと、難しいことをとりあえずなんとかしなきゃ」と思い、目の前のことを全力で精一杯やるだけで、たとえば、画面を見ながら台本をめくり演技をするということも、とても大変だった[25]。アフレコも難しく、できないことに集中してしまい、本来しなければならない声での演技に集中できない自分がいた[25]。それができるようになるとまた別の課題が生まれてきて毎回壁にぶつかっての繰り返しだった[25]。 初めの頃は、毎日不安で、毎日手探りで、毎日てんぱっており、それを克服するためにひたすら練習するしかなかったという[25]。 声優を行い続けてその後の2007年4月から放送されたUHFアニメ『桃華月憚』では、第21話の脚本を担当した。 ヒロイン役で出演する『乃木坂春香の秘密』に本人役の人気声優としても登場。「春香と声やキャラが似ている」という感想を持たれ、CD発売イベントで春香と触れ合ったり「N's」として、職場の様子やサイン依頼を快諾するシーンが描かれている。アニメでも能登が演じた。 『花咲くいろは』では、舞台が石川県かつ自身が石川県出身ということもあり、作品中の能登弁(金沢弁)の方言監修も行っている。実際には両親らにも協力を仰いだとのことで、第7話のスタッフロールでは金沢弁監修として「能登家の人々」がクレジットされている。 現在まで2018年9月14日、自身がパーソナリティーを務める『能登麻美子 おはなしNOTE』の中で、結婚と妊娠を報告した[7]。結婚した際はそれを公表していなかったが、妊娠を機に公表した旨も語った。 テレビ出演もTOKYO MXの『5時に夢中!』に『地獄少女』の宣伝役として出演したことがあっても、声優は裏方という意識が強かったため公表の必要はないかなと思っていたが、前後の仕事の兼ね合いでオープンにしたほうが仕事がスムーズになると思い、公表することになったという[26]。 その後出産し[注 2]、短期間だが育休を取っている[26]。出産後、自身の変化は多岐に渡ってあったが、一番大きかった変化は少しペースを落とすようになったという[26]。育休期間はいろいろなことを考えており、特に育児と仕事のバランスは常に迷っており、たとえばその日「もう少し子どもと一緒にいる時間を長くしたほうがいいのかな」と考えたとしても、次の日現場に行くとやっぱりそこで自分がやりたいこと、現場に来られる喜びがあったという[26]。このことは出産前でも感じてはいたが、出産後は仕事ができる喜びを実感することが格段に増えたとしている[26]。 2024年3月、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のプロスペラ役で注目を集めたことから、第18回声優アワードにて助演声優賞を受賞した[27]。 人物・特色何でも両親に話すタイプではなく、両親が共働きということもあり、今で言う友達親子ではなかった[16]。10代の頃も家族の大事さ、ありがたみを感じてはいたが、親のありがたみが分かったのは、親元を離れたからであったと語り、学生の頃は親に助けを求めるという感覚ではなかったという[16]。 基本的には人がとても好きであるが、高校でも人付き合いは苦手で、逆に同世代の友人がなかなかできなかった[19]。皆が「面白い」、「楽しい」など思っていることに興味を持てなく、色々なことが混乱しており「いや〜、どうするべ〜」と結構きつかった[19]。流行には全くうとく話を合わせる程度には知っていたが、心が動くことではなかった[19]。のちにその時は、「本当のこと」を言うことが、とても頭をもたげていたと語る[19]。 学校の授業では好きな学科などは興味がある分野と興味のない分野がはっきりと分かれていた[15]。好きだったのは国語、社会、図画工作、美術などの文科系、逆に数学、理科は嫌いで英語は未知という[15]。 高校生の頃、読める読めないにかかわらずに興味あったのは、遠藤周作、大江健三郎、太宰治などの純文字で、大江の作品は途中で挫折したが興味はあった[19]。他にライトノベル、コバルト文庫なども読んでいたが、読むのが早い方ではないため、数は読めていなかった[19]。 漫画も好きで、3人姉弟で弟が2人いる影響もあり、少年漫画には多少詳しい[28]。歳とともに漫画は読まなくなってきたが、小、中、高と、読んでいた[19]。一方でアニメはあまり見ておらず、映画は好きだったが、テレビで見ていた感じだった[19]。 趣味は華道[4]。好物は中華料理と脂身。嫌いなものは柚子。好きな花は金木犀。好きな俳優に藤原竜也、大竹しのぶ、寺島しのぶを挙げている。プロ野球では広島東洋カープのファンである。 小説家では長野まゆみの本が好きで、他に画集や写真集、美術の教科書なども見るのが好きだった[15]。一方、観るのが好きなだけで知識は全然無かった[15]。 高校時代も「アルバイトをしたい」と思い、旅館に飛び込みで「雇ってもらえませんか」と電話して交渉し、雇ってくれたこともあったが[20]、さらにWEBラジオ「鉄のラジオバレル」#5[29]によると、巫女のアルバイトもしたという。専門学校時代はドーナツ屋など接客系中心にアルバイトではかなり働いていた[20]。大沢事務所の研修生時代には、風景写真家の助手、喫茶店のウエイトレス、仲居と、3つのアルバイトを掛け持ちしていた。 出産してから人としてとても涙もろくなり、よその子でも入学式や卒園式、街で元気に駆け回っているような姿を見かけるだけでも、目頭が熱くなる時があるという[30]。 インターネット上では能登を賛美する「能登かわいいよ能登」というフレーズがある[31][注 3]。元はファンではない者による褒め殺しだったが、そのうち肯定的な者たちが使う言葉として広まった[31]。 声優メディアでは多数のアニメやゲーム、洋画のアテレコ、テレビCMのナレーションに出演する実力派と評され、はかなげな少女、芯の強い大人の女性、少年役など幅広い役をこなす[1][5]。 早い時期からデビューをして活躍しているが、能登自身は人気があるないというようなことは、考えることはないという[25]。しかし手紙をくれたり反応してくれる人物がいるということは、「とてもありがたい」と語る[25]。2009年時点では声で仕事をしているが、その作品の一部になること、作品というものを通して、何かしらの形で還元できるかもしれず、この先、声優でなくなるかもしれず、仕事がなくなるかもしれず、そうであってもそうでなくても、変わらずに何かで還元して行きたいと語る[25]。2009年時点で芝居などをたくさんして、仕事を通じて、多くの人物たちに観たり聞いたりしてくれて受け止めてくれる人物、返してくれる人物がおり、抽象的だが、「ああ、まわっているのかなぁ」と感動し、嬉しくありがたいことと思っている[25]。「多くの人とつながっているんだ」という喜びを感じ、その中でできることを精一杯していきたく、そこで必要とされなくなったら「次に自分が行くべき場所があるのだ」と語り、ここにいさせてくれる間は「精一杯頑張りたい」と思っているだけという[25]。人が出会える数に限りある時間の中で出会えたということは単純に嬉しく、「もっともっとお返ししたい」と語る[25]。 2000年代中期から、ナレーションを担当することも増えている。「三菱電機」や「キユーピー」の一部など、様々な宣伝CMで、能登の声が流れており、「アボカド・ドットコム」では、本人が顔出し出演もしている。また、CM以外ではアニメ『うっかりペネロペ』やDVD『耳折れ兄弟 スコティッシュフォールド・アトム&:*ルーク』でも担当している。 声質はおっとりしていて、どことなく和みを感じる[32]「ウィスパーボイス」「癒し声」と呼ばれる柔らかく滑らかさが特徴[33][34]。音響監督の本田保則には、「声に混濁したあれがないんですよね。これは天性持って生まれた、ちょっと浮世離れしたところが得なところじゃないですか」と評されている[35]。 歌手2011年11月23日、GloryHeavenより自身初の個人名義シングル『青のキセキ』をリリース[36]。自身がパーソナリティを務めるラジオ『能登麻美子・地球NOTE』のOP・EDテーマが収録される。なおそれ以前には、同事務所で共演の多い川澄綾子とのコラボでCD『Scoop!/7 days after』を出している。 一方で、『ウィッチブレイド』のアフレコ現場で、童謡「かごめかごめ」を歌った際、怖い歌になってしまい、周囲から「呪われそう」といわれる。同番組の番宣ラジオ『ウィッチブレイディオ』でこのエピソードを披露し、能登が「かごめかごめ」の1小節を歌ったところ、翌週のリスナーからの感想メールの8割を占めるほど反響があり、「能登に童謡を歌わせるコーナー」が誕生することになった。その後ホラー映画ということもあってか、2022年公開の映画『“それ”がいる森』のCMナレーションの冒頭で「森のくまさん」の歌唱を依頼され実施[37]。 学生時代には音楽に興味を持ったことはなく、活字、絵といった音のない世界に興味があったこともあって好きなアーティストなどおらず、部屋で音楽をかけるということもなかったというが、その後音楽の仕事をもらうようになってから、聞くようになった[22]。専門学校時代のレッスンでは歌、ダンスはあったが、メロディを奏でるということが分からなかったほどで、能登の中では、芝居で表現することと音楽で表現することは違うが、2009年時点では「音の世界も表現できたらとても素敵なんだろうな」という憧れはあることから「いつかつながるといいな」と思っているという[22]。 交友関係水樹奈々とは食事や温泉旅行などに一緒に行っており[38]、『水樹奈々のMの世界』に番組初となるゲスト出演をしている。新谷良子とは同じ金沢の出身であり、『快盗天使ツインエンジェル』などでも共演している。小説家の畑野智美は演劇ワークショップで20歳の誕生日に知り合っている[39]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム
ドラマCD
ラジオドラマ
ASMR
吹き替え映画(吹き替え)
ドラマ
アニメ
その他
ラジオ※はインターネット配信。
ラジオCD
オーディオドラマオーディオブック
デジタルコミック
パチンコ・パチスロ
映像商品
舞台
特撮
映画
ナレーション
CM
DVD
映画
雑誌フォトエッセイ
玩具
その他コンテンツ
ディスコグラフィ→N'sでの活動については「N's」を参照
シングル
コラボレーション・シングル
企画アルバム
タイアップ曲
キャラクターソング
その他参加楽曲
収録CD不明
脚注注釈
シリーズ一覧
ユニットメンバー
出典
参考文献
外部リンク
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